08. 最高の笑顔2009年11月02日 01時03分05秒

 最終に近い電車は意外なほどの人で溢れている。慣れないつり革を持つ掌がじんじんと痛い。揺れる電車の中で器用に足を突っ張り、携帯を触り本を読み、心をここではないどこかに飛ばしてこの時間をやり過ごす人たち。ざわついた静けさはまるで牛小屋のようだ。僕は牛たちから目を逸らし窓の外に流れる景色をぼんやりと見つめている。

「俺は別に有名でもないからさ、ま、期待しないで」
 フリーの音楽プロデューサーだという彼は照れたような顔でそう言った。ラフな服装、見た感じ大して年も違わない。賑やかな居酒屋に着慣れないスーツで現れた僕は蛍光灯に照らされた彼の笑顔が眩しくて、何も言えずに俯いた。
 −−間違えんなよ。オレは紹介するだけだからな。
 トオルの声がふと、頭の後ろで聞こえたような気がした。

 がたん。
 急に電車が揺れる。つり革をぎゅっと握りしめてやっとのことで僕は身体を支える。

 バイト先に新しく入った男はひどく生意気だった。しかし奴が音楽業界の人間と親戚であることを知った時、僕はチャンスの女神の影を見たような気がした。僕は自分からその男、トオルの指導係を申し出た。親戚との約束を取り付けてもらえるまで、物分りのいい先輩を演じられるように。
 −−その服で行ってんの? レコード会社に? あーあ。人は見た目じゃないなんて嘘だからね。
 僕の考えはすぐにトオルに見抜かれたようだった。僕に対する敬語さえいつの間にか消え、喋る言葉はいちいち僕をむかつかせた。口を結んで黙りこくった僕を奴はあからさまに鼻で笑った。
 そんな言葉を聞きすぎたのかもしれない。ようやく彼に会えたその時ですら、僕は見えないトオルに付きまとわれていた。

 駅名のアナウンスが静かな牛小屋に響く。

 −−なんだこれ。CD-Rそのままのパッケージに油性マジックで殴り書きのタイトル。あのさあ、これ渡されてよし聴いてみよう、って思う?
 わかってるよそんなこと。心の中でトオルに呟きながら僕は彼にCDを差し出した。彼は受け取ると、こういう音楽?と笑った。綺麗な海の写真をあしらったジャケットがただ見栄えの為に適当に探して貼り付けたものだなんて言えなくて、僕はごまかすように笑った。

 窓の外に流れる灯が、不意に少なくなる。

「君をプロデュース? うん、それは今こうやって話をしたり後でCDを聞いたり、それでまた会いたいと思ったらこちらから連絡するからさ。ところでどういうのをやってんの? ああジャンルはこれ聞いたらわかるし、むしろコンセプトかな。君が音楽を通じて表現したいこと。つーか、価値観? 俺はそういうところを見て、ああ俺こいつと一緒にやりたいなぁって思うわけ」
 表現したいこと。
 僕がやりたいこと。
 −−聞いたよ、CD。何処かで聞いたようなっていうかさ。
 僕は言葉に詰まって目の前のジョッキで顔を隠すようにビールを飲み干した。

 電車がゆっくりとスピードを落とす。
 滑り込んだ駅は灯りすら薄暗い。

「デビューと言ってもね、この業界って入り口はひとつじゃないんだ。思いもかけないところから道が開くことだってあるよ。だから人脈はって言うとアレだけどさ」
 −−人間を手段としか見てないんだ。オレのことも、ね。
「例えば君が俺と出会うことで、君を通じて俺に何かいいことがあるかもしれないじゃない。それが人脈。でも俺にとってはここで君と楽しく飲めていればそれで十分いいことだったりして。あ、君ずっとひとりでやってるの?」
 −−邪魔だったんだろ、バンドメンバー。
「え、解散しちゃったんだ。残念だったね。何年くらいやってたの?」

 ホームを照らす蛍光灯が寂しそうに流れていく。
 ガラスはまるで鏡のように車内を映し出す。

 言葉を探せない僕は飲み過ぎていた。酔いは僕の頭を容赦なく掻き回し、トオルの声は頭の後ろでボリュームを上げていた。
 −−憧れ? ははっ。その年で言うわけ?
 向かいで笑う彼がぼんやりと霞んだ。トオルの声が頭をぐるぐると回り、僕は自分が何を考えているのかさえわからなくなっていた。
 −−お前の憧れってさ……
「大丈夫?」
 気がつくと、テツヤが僕の顔を覗き込んでいた。
 僕は声にならない叫びをあげた。それがテツヤじゃないことはわかっていた。それでも……その時のことはうまく思い出せない。僕は何かを口走ったのかもしれない。
 −−音楽が好きなんじゃないんだよ。おまえはただ、
 トオルはいつの間にかテツヤの声色で僕を責め始めた。僕の向かいで困ったように首を傾げた彼の声と、テツヤの声が同時に僕に降り注いだ。

「ねぇ、デビューすることが目的じゃないよね?」
 −−お前はただ、ミュージシャンと呼ばれたいだけだろ。

 しゅーっ。
 空気の音と共にドアが開く。

 −−いつまでそんな顔してんだよ。0円のスマイルくらい相手にくれてやれっての。
 帰り際、握手を求めた彼に手を差し出そうとする刹那、またトオルの声が響いた。掻き回された頭のままで僕は彼の手を握り、出来得る限りの笑顔で顔を上げた。彼はぎゅっと手を握り返し、反対の手でぽんと背中を叩き、僕の耳元で囁いた。
「なんか今日はごめんね。ゆっくり休んで」

 その言葉の意味が今、わかった。窓に映る僕の顔は、まるで景色に空いた穴のようだ。
 僕は自分の立っている場所がようやく見えた気がした。わかってみれば僕は窓に空いた穴でしかなかった。チャンスの女神なんて初めから居なかった。それなのに見えないトオルはまだ背中に貼り付いて、時々僕に言葉を投げかける。
 −−お前結局、何がやりたいんだ?
 −−何がやりたいんだ?
 突然熱い塊が喉にせり上がった。塊は喉に詰まりどうしても飲み下せない。耐えきれず口からこぼれ落ちたものは低く短い呻き声だ。鼻の横を伝い顎の先からぽたりと雫が落ちる。唇が震え、塊は次から次へとせり上がり喉は引きつるような細かい痙攣が止まらない。隣の牛がいつの間にか顔を上げ、珍しい生き物を見るように僕を眺めていた。

コメント

_ ヴァッキーノ ― 2009年11月02日 18時17分38秒

そうは言いつつこの人はメジャーデビューするんだろうなあ。
と、思うんです。
というのも、今、ゴッドファーザーを観てまして、あの世界観にどっぷりと浸ってるんです。
それで、何を読んでも
ゴッドファーザーとダブらせて見てしまうということになってしまってます。
いろんなことがあっても
この主人公には
成り上がってほしいですねえ。

_ ぎんなん ― 2009年11月03日 10時15分25秒

ヴァッキー、
成り上がりですかー。永ちゃんですねぇ(そっちか)
こういう趣味的な仕事だからこそ、実はそんなに好きじゃない奴の方が向いているのかもしれないですね。好きなことを仕事にすると辛いこともある気がして。
昔のミュージシャンは「女にモテたくて音楽を始めた」って言うのがテンプレートだったんだけど、最近はそんなこといいませんねぇ。

でも、こいつの音楽、面白くなさそうだもんなあ(汗)

_ 儚い預言者 ― 2009年11月04日 20時04分03秒

 空は抜けているかと私は問う。地に底があるかと私は問う。失ったことさえ忘れて私は歩む。彷徨うとは、目的と手段を敢て持つべきでないという逆説的な聖なる道である。
 戒律は勿論フォームである。それが倒立しても真実は変わらない。そして全ては変化する。知覚の辺りに靄がある。認識は夢であるかと、現実であるかと無視して、その論理に括られていく。
 もし他人という事があるのなら、宇宙はバラバラに発散するのだろう。そして一人なら寂しい収斂だろう。
 喜びとは、映った自分を隠す鏡の埃のように、真実には辿り着けない浮遊物に過ぎないのだろうか。それを目的にすることの夢の跡。
 息することの儚さに人は全ての時間を投資し、全ての宇宙を過信する。

 がしかし、美しい。それが錯覚であろうと、幻影であろうと。

 迷いこそ悟りであり、夢こそ真実からの元衝動である。

_ ぎんなん ― 2009年11月05日 21時40分04秒

我が家に新型インフルが上陸しております。
なのに何故か私は低体温です。

預言者さま、
目的と手段を持つべきではない、ですか。迷うことが悟りなら「悟り」というのは到達点でも持続する状態でもなく、うつろいの中の一点ということになるのでしょうか。
私はここまで特になーんも考えず、運だけでへらへら流れてきた自覚がありますが、目的と手段を持たずにいるという状況は想像を超えます。ただ生きるということは想像以上に辛いことのような気がします。

ひとまず今は、こたつ出さないと。お風邪など召されませぬよう。

_ おさか ― 2009年11月06日 08時57分35秒

ああー、なんか今回の話は身につまされるわあ(謎
音楽は、もうやりつくされているという説もあるだけに、オリジナリティって難しいですよねー
うちの娘がよく聴いてるアニソンも、若い新進気鋭のバンドがやってることが多いんですが
新味はないもんなあ、スレたオバちゃんには(笑
ただ若さと勢いで、うん♪ 爽やかかも、と思うくらいで

ミュージシャンというのもいろいろあって
自分の曲を作って売っていくのが一番王道なんだろうけど
お客の求める音を作る仕事ってのも、案外職人ぽくてやりがいあるかもなあなどと思ってしまう
テツヤ、そういう道を目指せよ、とオバちゃん的おせっかい♪

_ ぎんなん ― 2009年11月06日 22時35分41秒

ひとまず、我が家のインフルさんの猛威は収まったようです。
低体温も収まったようです。

おさかさん、
何故おさかさんが身につまされて(笑)
やりつくしているのは本当なのかなあと思いますね。見た目を変えつつ印象を変えつつ繰り返しているだけなんだろうなあと。ファッションなんかもそうですが、10年前のものは死ぬほどダサいけれど20年前のものは却って新しい。音楽を聴く年代というのはある程度限られてますしね。
(ターゲットがもっとピンポイントな戦隊ものは限られたモチーフを繰り返し繰り返し……って、話が逸れました笑)

> お客の求める音を作る仕事
スタジオミュージシャンということですかね。なかなか食っていくのは難しいと聞いたことがあります。
それ以前に、この彼は裏方をやりたいわけではないのですが。

_ 儚い預言者 ― 2009年11月09日 19時13分43秒

 誰も分からないが必ず知っている。
 誰も知らないが必ず分かる。
 自力本願と他力本願の趣向は
 この二極性の現実では贖えないか。
 どちらにしてもどのようにしても
 道なき道の行方は、閉じている。
 そう見えるときこそ、道は開いているのである。
 神の二分法は簡単すぎて
 極度のエネルギーを迸らせなければいけない。
 がそれも振れである。
 そう世の中は輝きだけである。
 真実に大小はない。
 振動する波の行方とは、宇宙に無辺に広がるだけである。
 
 気にする事はない。今輝いていることは永遠だからだ。
 死ぬということは妄想なのだ。
 存在は一つであり、絶対有である。
 その旅路は
 どんなときであろうと、
 どんなことであろうと、
 祝福されている。

 宇宙はあなたのものである。
 永遠なる物語。
 いのちの拡大と喜びである。
 聖なる祈り。

 知らなくても分からなくても
 息していること自体が神そのものである。
 飛翔しなくても変革しなくても、そのままで。
 振り返ることも要らない。
 それは宇宙の意思そのものだから。

_ ぎんなん ― 2009年11月20日 22時38分37秒

プロジェクト掛け持ちは嫌いです。春まで忙しいみたいです。るるるー(泣)

預言者さま、
返事が遅れて申し訳ありません m(_ _)m
そのままでいい、あなたは全てだ。それは一種の絶望じゃないかと最近はちとひねくれております。
ぼんやり考えてみましたが、私は変わりたいと思っているのかもしれません。
そう思わなくても変わっていくものですし。
変わらずにはいられないわけですし。
それなら、きちんと意識を持って変わりたいものだと。お釈迦様の掌の上で存分に走り回っていたいなと。
なんかそんなことを思ってみただけなのですけれども。疲れてるな。よし寝よう。

_ 儚い預言者 ― 2009年11月21日 07時10分48秒

 変化が恒常です。変わらない物事はありません。
 全てが変化する。
 ということは、「私」というものも確かではなく、
 「私」というのは、偽者の使者かもしれません。
 でも今というこのとき、「私」しかないのです。
 それはどんなときも宇宙の「切り抜き」として
 認識する虚像を「私」の反映としているのかもしれません。

 では真実とは何か。断片であっても全てを含むというホログラムという
 写像が何を表すか。
 そう単にあなたが何を意図するかによって宇宙がそのとおりになる。

 現在の思考感情が未来に顕現するというプロセスこそ神の仕組みかもしれません。

 天地人、この組み合わせを忘れた人類の夢はどこへいくのだろうか。

_ ぎんなん ― 2009年11月24日 00時49分56秒

法事で実家(岡山)までとんぼ返りしてきました。へろへろです。

預言者さま、
自我というのも不思議なんですよねぇ。
物質的に言えば、身体を形作る物質は日々変わっていくわけで。食べたものが取り込まれ、古いものは排泄され、日々新しく変わっていくものに変わらず備わる「自我」ってのはどういう仕組みなんだろうなと。
生物は不思議です。

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