11. シーラカンス2010年05月30日 16時13分58秒

 眠れなかった。どろどろに疲れているのに、今すぐにでも眠ってしまいたいのに。高架を走る車の音が唸るように低く壁を揺らしている。それに呼応するようにぴんと張りつめる神経が頭の片隅でびりびりと震えている。熱が上がっているんだろう、ベッドにめり込んででもいるように身体が重い。隣室から筒抜けの物音を聞きながら、押しつぶされそうに狭い部屋で僕はひとり息を殺していた。
 繁華街から外れた、どぶ川のほとりにある古びたビジネスホテル。壁の薄いこんな宿でさえ今の僕には贅沢だ。思い出してみれば数日前から体調はおかしかった。疲れも溜まっていた。そんな時に限って昨日、真夜中のレストランはやけに埃っぽく、古めかしい空調が唸りをあげて一晩中僕に風を浴びせ続けた。ひとたまりも無いってのはきっと、こういうことだ。
 眠るのを諦めて、僕はめり込んだ手足をひとつずつひっぺがすようにして起き上がった。喉は無数の刺を飲み込んだかのように痛い。ベッドを降りても身体が浮き上がっているように感じる。バスルームでコップの水を飲み干して正面を見ると、目の前には幽霊のような男が佇んでいた。乱れた髪、落窪んだ眼、くっきりとしたクマ。なあ。鏡の中の男に向かって思わず僕は呟いた。

 満足か?

 レコード店やライブハウスを一軒一軒巡る、そんな毎日はまるっきり成果の見えないルーティーンだ。24時間営業のレストラン、ファーストフード、うたた寝で夜を越す毎日。身体の何処かが日々すり減っていくような、感覚。何かに近づいている気はしなかった。むしろ僕は逃げ続けているような気がしていた。
 隣室のベッドが弾むように軋んでいる。ため息をついて僕は段差に足を伸ばした。ざらりとした絨毯に触れるはずの足先は冷たく、そこだけ水に浸かってでもいるようだ。

 ぴち。
 微かな音がした。もう片足をゆっくりと降ろすと、ぴしゃり。今度ははっきりと水音がした。思わず屈んで手を伸ばす。指先に触れる水。どうして。水の漏れる音なんて何も、いや、それどころか車の音も、あれほど筒抜けだった隣室の音も何もかも。自分の心臓の音が聞こえそうなほど、いつの間にか部屋は静まり返っていた。
 そして、ついさっき水たまり程度だった水嵩は音も無くくるぶしをあっさりと超えてさらにせり上がっていた。ベッド横のフットライトは既に水中に沈み、僕が足を踏み出す毎に壁と天井に映し出される波紋はまるで部屋全体を揺らしているようだ。

 ゆらり。
 部屋が、身体が揺らぐ。

 ぷつん、と突然テレビが点いて部屋に青い光が瞬いた。画面左にインタビューアらしき男、その向かいに座っているのは、テツヤだ。
「……違和……ったんで……周り……違……異質……が紛れ……」
 画像は乱れ、音声は途切れ途切れだ。
「で……わかったん……はきっ……深海……んだ……」
 インタビューアの声は聞こえない。いつの間にかインタビューアの姿も見えない。気が付くとテツヤは画面の向こうからまっすぐに、僕を見つめている。
「僕は、はぐれた深海魚だった。それがわかったから、海に潜ったんで」
 ぷつん。テレビは点いたときと同じくらい突然に消えた。

 水は膝に達しようとしている。恐怖は感じなかった。静まり返った部屋、流れも重さも感じない水。これが、現実であるわけがない。だからふと振り向いたベッドの上に音も無く女性が立っているのを見ても驚きはしなかった。むしろ初めからそこに居ることがわかっていたような気がした。長い黒髪を肩に落としたその女性はベッドの上にまっすぐ立ち、僕を見下ろしている。

 −−日曜日、に
 聞いたことのない声。
 −−待ち合わせ、したよね。ふたり、で、街を歩き回って。
 離れているのに、耳元で囁かれているような声。
 −−学校のことや、友達のこと、喋ってた、私、ひとり。
 たどたどしい言葉はしばしばため息で途切れ、女が言葉を探す間も水嵩は増していく。
 −−君が何も、喋らない、から。
 じわじわと腿を這い上がる水を感じながら僕は女を見つめた。顔にはぼんやりと霞がかかって表情も読み取れない。
 −−シーラカンス、みたい、君は。
 それなのに、女はこちらを見つめて悲しそうに微笑んだ。ただ、そう感じた。
 水は腰骨に近づいていく。
 −−固い鱗で、身を、守って、深い海に、潜り込んで、
 ……僕が?
 −−交わろうとしない、変わろうとしない。ただ眠りこんで、夢を見て、深海の岩の影で。
 誰かと、間違えてる?
 −−そして、仲間が消えた後も、深海で、生き残って、ひとりきりで、
 違う。君が言っているのは、僕じゃ。腰を過ぎた水が次第に胸へ迫る。
 −−それでも、嫌いじゃ、なかった。
 水が急速に増え始めた。既にベッドも水に沈んでいる。良く見ると女は水の上に立っていた。裸足のつま先が水の上に浮いている。
 −−どうして。
 女はしゃがみ込み、水の上に両手を付いて這うように僕に近づいた。胸を突き上げる水嵩とにじり寄る女。目の前に女の顔があるのに、女の顔だけがぼんやりと霞んでいる。僕はそのとき、初めて恐怖した。
 −−どうして海から出てきたの。どうして、あんなこと。
 水が首を浸す。女は僕に覆い被さるように身を投げ出した。や、め。僕の首をかき抱く女。仰向けに倒れる僕の顔が水中に沈む。吐く息が丸く水面に登る。もがく指に感じる水。口に喉に流れ込む水。水面が遠ざかる。女の髪がゆらゆらと揺れ、腕が首にきつく巻き付いて。

 −−深海魚は浮かび上がったら死ぬのよ。

 僕は目を覚ました。車の音が低く壁を揺らしている。隣室からはもう何も聞こえてこない。荒い息を整えてから、僕はめり込んだ手足をひとつずつひっぺがすようにして起き上がった。マットもシーツも汗でじっとりと湿り、ここだけ雨でも降ったようだ。おそるおそる床に足を降ろす。まるで身体が浮き上がっているように感じる。
 これは現実だろうか。
 現実、だよな。
 僕は手探りでスイッチを入れ、バスルームの扉を開けた。

 水。

 バスルームは水で満たされていた。扉を開けた僕に襲いかかり降り注ぐ、水。その水は冷たくも重くもなく、ホログラムのような光を放ちながらあっという間に僕を包み込んだ。
 これも、現実じゃない。
 水は尽きることなくバスルームから溢れ出している。目を開けると浴槽にさっきの女が佇んでいる。長い髪が水にゆらゆらと揺れ、女は僕の顔を見ると嬉しそうに微笑んだ。女から降り注ぐ光の粒が僕の頬をかすめて通り過ぎていく。ああ、そうか、君は。何かを思い出して僕は手を伸ばした。伸ばした手の遥か向こうで、女は微笑んだままで溶けるように沈んでいく。動けないでいる僕に、僕の知らない僕の記憶が止むことなく降り注いでいる。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2010年06月01日 23時35分19秒

「色」

 いのちの守る祈りは祈りのないいのちにある。そこにあってそこにないもの。ここにあって秩序のないこと。線形と非線形の狭間に合わせ鏡を探す。交じりとはいつも擦れである。それは違いと同じの架空性の証明を、永遠に繰り返す一瞬である。
 もしという世界の実在は、掴むという現実よりも下位なのか上位なのか。それは幻と対等であることの夢と、知覚という変換装置への過信が、どこまでも線路のように、平行であることを自明にするかのように。
 溺れるとは幸福である。その幸福こそ不幸の代名詞である。この矛盾の気づきこそ躊躇いと恐れの第一の目的であるかもしれない。
 意味とは同意である訳ではないが、真実への加担を果たす誘引であるには違いない。

  おぼれゆく
  いきするゆめの
  ためらいに
  おそれをあいの
  つかいにこのよ

 光のない深海に人は自分の心を見る。真実は計り知れないが、自分という観念と信念の合間に、そっと潜入する幻を見たくて。
 甘い雰囲気がこの世の計らいならば、贅沢な設えの怖れは、この上ない悦楽である。宇宙はひとつにしても、分断された個々の自由は、いつも二極の間を彷徨う。
 色はいつもあるのに、なぜか元は透明である。漆黒が背景であることは間違いであり、眩い無色の白さが背景なのだ。

 彷徨うことの、躊躇うことの幸せ、この世の極楽。

_ ぎんなん ― 2010年06月04日 08時28分28秒

預言者さま、いつもありがとうございます。

「無色の白さ」という言葉が面白いですね。白は光そのものの色。黒は光が無く色が見えない事を示す色。色が見えない生物もいるし、赤外線や紫外線が見える生物もいる。そんな事を考えていると、今目に見えている風景も不思議なものに思えます。
深海にはなかなか行けませんが、地下には行きたいと良く思います。昨日もTVで春日部の放水路を見て「行きてぇーー」と叫んでました。共同溝にも潜りたい。潜ってぼんやりしたいです。地下萌えです。

_ ヴァッキーノ ― 2010年06月06日 18時53分01秒

おっと!
ついに11話目ですね。
ボクもたまに出張とかで、こういうビジネスホテルへ泊ることがあるんですけど、なんかやっぱ怖いですよね。
それで、ベッドってのがまた寝付けない。
枕もフカフカだし、寝返りを何度もうってるうちに、朝になってたりします。
そんなわけで、今回のお話、リアルに怖かったですよ~。
だって、絶対に次、出張でホテルに泊まったら思い出しちゃいますもん。
バスルームの蛇口だけは、ちゃんと締めておきます!
う~、怖い。

_ ぎんなん ― 2010年06月08日 09時24分14秒

ヴァッキー、
私もこの間出張でビジネスホテルに泊まってきたので、写真を撮ってきました。
私は自宅以外の場所で宿泊するときは、意味もなくテンションが上がるたちです。出張で一人でビジネスホテルに泊まるなんて、非日常でわくわくです。(←つまり、滅多に無いということですが)
そんなわけで、ホラーを書いたつもりはあまり無かったんですが、怖かったですか? 是非是非ホテルで思い出してくださいませ。ほほほ。
蛇口は閉めておいた方がいいでしょう。ホテルの水道代の為に。

そろそろ次の話を上げます。亀の歩みです。

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