うたう絵描き2007年09月10日 22時26分50秒

※この記事には一部差別用語が使用されています。これは情報を正確に伝えるためであり、筆者に差別の意図は全く無いことをここに記しておきます。また、不快に思われる方はこの先をお読みにならないで下さい。

 友部正人を初めて聞いたのはもう何年前だろう。
 結婚前、当時付き合っていた旦那にライブに連れていかれたのが最初だと記憶している。真四角な多目的ホール、座席の一番前、しかも真ん中に陣取った旦那の隣で、その日何故かすごく眠かった私は寝てしまわないように必死だった。
 アコースティックギターとハーモニカ、たった一人で静かに彼は歌い始めた。

 眠気でぼんやりとしながら、私は彼の歌にある印象を抱いた。
 この人は絵描きだ、と。
 ちょっと嗄れた、耳に引っかかる歌声は印象的な言葉を次々に投げかける。しかし、その言葉に押し付けるような作り手の感情はない。感情的に思える言葉でもそれは何故か「感情的な絵の具」になって、見えないキャンバスに色を埋める。
「こんなの描いてみたんですよ。どう思います?」
 彼は大きな目で客席を見渡し、そんな風に微笑んでいるように見えた。


 彼の曲に「びっこのポーの最後」という曲がある。タイトルからして差別用語ど真ん中のその曲を収録したアルバムは一度発禁になり、現在は自主制作盤で発売されている。
 繰り返し叫ぶように歌われるフレーズは、意味も分からずただ、胸に引っかかる。


 ねえ、びっこのポー あんたのやっていることは嘘ばっかりだ
 あんたはただ死んだメキシコ人たちの手首をかわかして売っているだけだ
 (「びっこのポーの最後」より)

 それからしばらくして、彼のインタビューが載った本を購入する機会があった。本の中でインタビュアーが問う。
「"死んだメキシコ人たちの手首をかわかして売っているだけだ"っていうのは、どう言う意味なんですか?」
 彼は答えた。(笑)マーク付きで。
「意味なんてありません。ただのイメージですよ」

 あの時の印象は正しかった。やっぱり、彼は絵描きなのだ。


 私の文章は時々難解であるらしい。
 難解なら、わかりやすく書けばいい。だが、私の中にはそれに断固として抵抗する勢力が存在する。その抵抗勢力が何を欲しているのか、最近なんとなくわかってきた。
 意味より響きを。
 文脈よりリズムを。
 意味なんてなんぼのもんじゃ。そう叫んでいる勢力が確かに、私の中に居る。そいつらの根拠はこのあたりにあるんではないかと、やっと思い当たったのだ。
 詩人になれるわけでもないと言うのに。どこまでも、私は半端である。


 「歌詞」は普通の詩とは違う。メロディがあってこその詩。そうは思っているのだが、友部さんの「はじめぼくはひとりだった」という曲だけはメロディなしで独立できる数少ない詩のひとつだと思っている。この曲は最近のベストアルバムにも入っているらしいし、聞くのが面倒だったら友部さんは沢山詩集を出しているので、きっとどれかに収録されていると思う(←無責任)
 興味があったら探してみて下さいませー。



追記:歌詞を間違えていました。エジプト人→メキシコ人
そうだよ、これアメリカの歌だもの。はずかしーーー。