奴のシャツ 目次 ― 2008年10月24日 22時13分28秒

奴のシャツ (inspired by KIRINJI)
1. 歯医者
2. 自宅
3. バー「Pacific」
4. 峠
キリンジという兄弟ユニットの曲に「奴のシャツ」ってのがありまして、それがこの話の元ネタになっとります。この歌詞が既に短編小説ぶち込んだような歌詞なんで、前半はほぼそのままです。
後半はかなり創作でぶっちぎってしまいましたが。
なかなか書くことに慣れません。
期間もぐだぐだなぐだぐだ小説にお付き合いいただき、ありがとうございました。
1. 歯医者
2. 自宅
3. バー「Pacific」
4. 峠
キリンジという兄弟ユニットの曲に「奴のシャツ」ってのがありまして、それがこの話の元ネタになっとります。この歌詞が既に短編小説ぶち込んだような歌詞なんで、前半はほぼそのままです。
後半はかなり創作でぶっちぎってしまいましたが。
なかなか書くことに慣れません。
期間もぐだぐだなぐだぐだ小説にお付き合いいただき、ありがとうございました。
4. 峠 ― 2008年10月24日 20時41分01秒

ついに俺は車を止めた。
慎重に車を山肌に寄せエンジンを切ると、途端に静寂が俺に襲いかかった。細く折れ曲がった峠道には俺の他に通る車も無い。大きく息をついて俺はシートのリクライニングを倒した。
車ごと牛乳の中に沈んでしまったかのような風景が、窓の外一面に広がっている。
指一本でゆっくりと倒れる快適なシート、そんなものだって今は何の慰めにもならない。眠ってしまいたくて俺は目を閉じた。何の気無しに頭の上に振り上げた腕、スーツの袖から何かが香った。
線香の煙。
鈴(りん)の音。
目の奥で蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
俺は目を開けた。深いブラウンで覆われた天井は見るべきものも何もなく、仕方なく俺は窓の外に目を向けた。目を凝らすと、ねっとりとした濃い霧がゆっくりと流れていくのが見える。
今までのことが、ついさっきまでのことが、まるで現実ではないかのように思える。後から後から限りなく湧き出して流れていく霧が、いつの間にか俺を異世界に運んで行ったのかもしれない。
……もし、そうなら。いや、その方が。
ぼんやりと眺めていた霧の隙間にふと、何かが見えた気がして俺はもう一度目を凝らした。
窓のすぐ近く、頬が貼り付きそうな距離に姪の顔があった。ずっと前からここにいたような顔で、驚きすぎて声が出ない俺を笑っている。可笑しそうに歯を見せて、にたにたと。
「ねぇ、鏡は見た?」
耳元で囁くように、声が聞こえる。
「鏡を見ればぜんぶわかるのに」
笑いを堪えるような姪の声が、俺を苛立たせる。
「鏡は全部映してくれるよ?」
兄貴の言葉をオウム返ししているだけの癖に、俺の何が。そう言おうとした直前で俺は我に返った。
あいつが、こんなところにいるわけないじゃないか。俺は俯いて首を振った。
「いつまでそうやって逃げているつもり?」
耳元の声が次第に低くなった。顔を上げるとその顔は既に姪のものではない。薄く微笑んでいる丸顔の女を俺は睨みつけた。
戸部。
女の表情が変わった。悲しそうな顔でこちらを見つめている。
「失ってもわからないの?」
何のことだ。
「失ったこともわからないの?」
黙れ。どうしてそんな、哀れむような。眼を合わせていられなくて俺は顔を伏せた。
「わかりたくないんですよね、貴方は」
その声はもう戸部のものではなかった。含み笑いでこちらを見つめる奴の顔が脳裏に浮かぶ。
黙れ!
俺は小さく声を上げた。黙れ黙れ黙れ。頭痛を感じて俺は頭を押さえた。
「じゃあ……」
何も言うな。もう何も。
「お前は何故そこへ行ったんだ?」
奴の声じゃない。俺はおそるおそる顔を上げた。
「お前はそこに行って、何を見た?」
窓の外に立っているのは。
「そして、何を知った?」
兄貴が俺を見つめていた。兄貴の頭の上を、煙のように霧が流れていった。
鈴の音がこだました。
兄貴の顔がゆっくりと年を取り、親父の顔になった。見慣れた親父の遺影の隣に、もうひとつの遺影があった。
やめてくれ!
俺は車を飛び出した。
牛乳のような霧はまだ晴れていない。ただ離れたくて、逃げ出したくてめくらめっぽうに走ってふと気がつくともう声も、音も、何も聞こえなかった。
あたりは死のように静まりかえっていた。霧の他に見えるものは何も無い。山も、谷も、自分の乗ってきた車でさえ。手を伸ばしてもゆっくりと流れる霧の他に、何も触れるものは無い。全く方向を失ってしまったことに俺は気付いた。ここは、自分の立っている場所はもしかすると崖の縁かもしれない。そう思った途端俺はその場から一歩も動けなくなった。
助けて。
誰か。
声は出なかった。たとえ声が出てもそれが誰かに届くとは思えなかった。ねっとりとした霧が、体にまとわりつく。
誰も、いない。
誰も。
俺は兄貴に問いただした。実の母親の居場所を、やはり兄貴は知っていた。
自分の眼で見てくるといい、そう兄貴は言った。
教えられた住所に母親はいなかった。ただ仏間に通されただけだ。指し示されたのは、見ず知らずの中年女性の遺影だった。
線香の煙。
鈴の音。
蝋燭の炎。
涙は出なかった。
だって、知らない人だったんだ。
足は立っていられない程に震えていたが、俺はその場にしゃがみ込むことすら出来なかった。濃い霧は容赦なく俺の体を舐め、髪の毛も服もじっとりと湿り始めていた。霧が晴れることなんて無いんじゃないか。霧の向こうにあるはずの、俺が住んでいた世界なんてとっくに無くなってしまったんじゃないか。いや、俺は消えない霧に包まれたまま、死ぬまで、死んでも、誰にも気付かれないんじゃないか。馬鹿馬鹿しい考えだけが頭の中をぐるぐる回った。震える肩を押さえながら俺は声を絞り出した。
誰か!
声は白い霧に空しく吸い込まれ、木霊の気配すら感じられない。俺は叫んだ。叫ばずにはいられなくなっていた。誰かを呼ぶ為じゃなく、既に言葉ですらなく、ただ俺は喉を振り絞るように吠えた。怖かった。ただ怖かった。果てのない白が。音を吸い取る静寂が。ひとりきりであることが。
いくら叫んでも同じだった。掠れた声が一瞬途切れ、俺は静寂に押しつぶされる錯覚に捕われた。息が苦しい。ゆっくりと足から力が抜けた。支えきれなくなった体がスローモーションのように崩れ落ちるのを、俺は意識の遥か遠くから眺めているような気がした。
どのくらい時間が経ったのか−−ほんの一瞬だったのかもしれない。
気がつくと俺はしゃがみ込んでいた。今自分が生きているのかすら自信が無く、体に痛みが無いことにとりあえず俺は安堵した。何気なく眼を向けた霧の隙間に何か黄色いものが見えた。白い世界の中でそれは気付かない程にうっすらと、時々かき消されながら、確かにそこにあった。百回死ぬくらいの勇気を振り絞って俺はゆっくりとそれに顔を近づけ、眼を凝らした。
アスファルトに引かれた、オレンジ色のセンターラインだ。
俺はセンターラインに手を伸ばした。ゆっくりと降ろした手は確実にアスファルトを掴んだ。おそるおそる、少しずつ体をずらしラインの上に辿り着くと、前方に伸びたラインはほんの少し先で霧の中にかき消えていた。
俺は這いずってラインの伸びる方向に進んだ。手のひらに、膝に、アスファルトのざらつきを感じる。今まで見えていたラインが体の下へ、そして目の前には進んだ分だけ先にあるラインが見えた。
手のひらで掴み、這いずる。
霧の中からラインが立ち現れる。
アスファルトを膝で擦りながら、進む。
進んだ分だけ現れるラインが、方向を指し示し続ける。
何も考えず、ただなめくじのように進み続けた。ただ目の前のセンターラインが続く方向へ。指し示される、その方向へ。何十回、何百回繰り返しただろう。ふと顔を上げると、赤い大きな影がうっすらと見えた。それが自分の乗ってきた車だとわかるのにしばらくの時間がかかった。わかった後も、立ち上がることはできなかった。壊れたおもちゃのようにめちゃくちゃに手足を動かしじっとり濡れた車体を手で掴んだ瞬間、俺は自分の眼から温かいものが溢れ出すのを感じた。父親の遺体の前でも、母親の遺影の前でも出てくることの無かったものが自分の湿った頬を濡らしていた。俺は座り込んだまま車体を腕で抱えるようにして、赤ん坊のようにわあわあと声を上げて泣いた。
慎重に車を山肌に寄せエンジンを切ると、途端に静寂が俺に襲いかかった。細く折れ曲がった峠道には俺の他に通る車も無い。大きく息をついて俺はシートのリクライニングを倒した。
車ごと牛乳の中に沈んでしまったかのような風景が、窓の外一面に広がっている。
指一本でゆっくりと倒れる快適なシート、そんなものだって今は何の慰めにもならない。眠ってしまいたくて俺は目を閉じた。何の気無しに頭の上に振り上げた腕、スーツの袖から何かが香った。
線香の煙。
鈴(りん)の音。
目の奥で蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる。
ゆらゆら。
ゆらゆら。
俺は目を開けた。深いブラウンで覆われた天井は見るべきものも何もなく、仕方なく俺は窓の外に目を向けた。目を凝らすと、ねっとりとした濃い霧がゆっくりと流れていくのが見える。
今までのことが、ついさっきまでのことが、まるで現実ではないかのように思える。後から後から限りなく湧き出して流れていく霧が、いつの間にか俺を異世界に運んで行ったのかもしれない。
……もし、そうなら。いや、その方が。
ぼんやりと眺めていた霧の隙間にふと、何かが見えた気がして俺はもう一度目を凝らした。
窓のすぐ近く、頬が貼り付きそうな距離に姪の顔があった。ずっと前からここにいたような顔で、驚きすぎて声が出ない俺を笑っている。可笑しそうに歯を見せて、にたにたと。
「ねぇ、鏡は見た?」
耳元で囁くように、声が聞こえる。
「鏡を見ればぜんぶわかるのに」
笑いを堪えるような姪の声が、俺を苛立たせる。
「鏡は全部映してくれるよ?」
兄貴の言葉をオウム返ししているだけの癖に、俺の何が。そう言おうとした直前で俺は我に返った。
あいつが、こんなところにいるわけないじゃないか。俺は俯いて首を振った。
「いつまでそうやって逃げているつもり?」
耳元の声が次第に低くなった。顔を上げるとその顔は既に姪のものではない。薄く微笑んでいる丸顔の女を俺は睨みつけた。
戸部。
女の表情が変わった。悲しそうな顔でこちらを見つめている。
「失ってもわからないの?」
何のことだ。
「失ったこともわからないの?」
黙れ。どうしてそんな、哀れむような。眼を合わせていられなくて俺は顔を伏せた。
「わかりたくないんですよね、貴方は」
その声はもう戸部のものではなかった。含み笑いでこちらを見つめる奴の顔が脳裏に浮かぶ。
黙れ!
俺は小さく声を上げた。黙れ黙れ黙れ。頭痛を感じて俺は頭を押さえた。
「じゃあ……」
何も言うな。もう何も。
「お前は何故そこへ行ったんだ?」
奴の声じゃない。俺はおそるおそる顔を上げた。
「お前はそこに行って、何を見た?」
窓の外に立っているのは。
「そして、何を知った?」
兄貴が俺を見つめていた。兄貴の頭の上を、煙のように霧が流れていった。
鈴の音がこだました。
兄貴の顔がゆっくりと年を取り、親父の顔になった。見慣れた親父の遺影の隣に、もうひとつの遺影があった。
やめてくれ!
俺は車を飛び出した。
牛乳のような霧はまだ晴れていない。ただ離れたくて、逃げ出したくてめくらめっぽうに走ってふと気がつくともう声も、音も、何も聞こえなかった。
あたりは死のように静まりかえっていた。霧の他に見えるものは何も無い。山も、谷も、自分の乗ってきた車でさえ。手を伸ばしてもゆっくりと流れる霧の他に、何も触れるものは無い。全く方向を失ってしまったことに俺は気付いた。ここは、自分の立っている場所はもしかすると崖の縁かもしれない。そう思った途端俺はその場から一歩も動けなくなった。
助けて。
誰か。
声は出なかった。たとえ声が出てもそれが誰かに届くとは思えなかった。ねっとりとした霧が、体にまとわりつく。
誰も、いない。
誰も。
俺は兄貴に問いただした。実の母親の居場所を、やはり兄貴は知っていた。
自分の眼で見てくるといい、そう兄貴は言った。
教えられた住所に母親はいなかった。ただ仏間に通されただけだ。指し示されたのは、見ず知らずの中年女性の遺影だった。
線香の煙。
鈴の音。
蝋燭の炎。
涙は出なかった。
だって、知らない人だったんだ。
足は立っていられない程に震えていたが、俺はその場にしゃがみ込むことすら出来なかった。濃い霧は容赦なく俺の体を舐め、髪の毛も服もじっとりと湿り始めていた。霧が晴れることなんて無いんじゃないか。霧の向こうにあるはずの、俺が住んでいた世界なんてとっくに無くなってしまったんじゃないか。いや、俺は消えない霧に包まれたまま、死ぬまで、死んでも、誰にも気付かれないんじゃないか。馬鹿馬鹿しい考えだけが頭の中をぐるぐる回った。震える肩を押さえながら俺は声を絞り出した。
誰か!
声は白い霧に空しく吸い込まれ、木霊の気配すら感じられない。俺は叫んだ。叫ばずにはいられなくなっていた。誰かを呼ぶ為じゃなく、既に言葉ですらなく、ただ俺は喉を振り絞るように吠えた。怖かった。ただ怖かった。果てのない白が。音を吸い取る静寂が。ひとりきりであることが。
いくら叫んでも同じだった。掠れた声が一瞬途切れ、俺は静寂に押しつぶされる錯覚に捕われた。息が苦しい。ゆっくりと足から力が抜けた。支えきれなくなった体がスローモーションのように崩れ落ちるのを、俺は意識の遥か遠くから眺めているような気がした。
どのくらい時間が経ったのか−−ほんの一瞬だったのかもしれない。
気がつくと俺はしゃがみ込んでいた。今自分が生きているのかすら自信が無く、体に痛みが無いことにとりあえず俺は安堵した。何気なく眼を向けた霧の隙間に何か黄色いものが見えた。白い世界の中でそれは気付かない程にうっすらと、時々かき消されながら、確かにそこにあった。百回死ぬくらいの勇気を振り絞って俺はゆっくりとそれに顔を近づけ、眼を凝らした。
アスファルトに引かれた、オレンジ色のセンターラインだ。
俺はセンターラインに手を伸ばした。ゆっくりと降ろした手は確実にアスファルトを掴んだ。おそるおそる、少しずつ体をずらしラインの上に辿り着くと、前方に伸びたラインはほんの少し先で霧の中にかき消えていた。
俺は這いずってラインの伸びる方向に進んだ。手のひらに、膝に、アスファルトのざらつきを感じる。今まで見えていたラインが体の下へ、そして目の前には進んだ分だけ先にあるラインが見えた。
手のひらで掴み、這いずる。
霧の中からラインが立ち現れる。
アスファルトを膝で擦りながら、進む。
進んだ分だけ現れるラインが、方向を指し示し続ける。
何も考えず、ただなめくじのように進み続けた。ただ目の前のセンターラインが続く方向へ。指し示される、その方向へ。何十回、何百回繰り返しただろう。ふと顔を上げると、赤い大きな影がうっすらと見えた。それが自分の乗ってきた車だとわかるのにしばらくの時間がかかった。わかった後も、立ち上がることはできなかった。壊れたおもちゃのようにめちゃくちゃに手足を動かしじっとり濡れた車体を手で掴んだ瞬間、俺は自分の眼から温かいものが溢れ出すのを感じた。父親の遺体の前でも、母親の遺影の前でも出てくることの無かったものが自分の湿った頬を濡らしていた。俺は座り込んだまま車体を腕で抱えるようにして、赤ん坊のようにわあわあと声を上げて泣いた。
<了>
3. バー「Pacific」 ― 2008年08月07日 01時56分16秒

ポンと軽やかな電子音が響いてエレベーターのドアが開くと、ガラス張りになった壁の向こうは一面ビーズを撒き散らしたような夜景だ。久しぶりに着たスーツの中で居心地悪そうに体が蠢く。景色を横目に見ながら通路を歩けば待ち合わせ場所は、すぐそこだ。
生演奏のピアノが流れるバーで、奴は俺を見つけると軽く会釈をした。
「二年ぶりだっけ?」
俺の言葉に奴は少し苦笑するように俯き、昔と同じ穏やかな笑顔で、三年ぶりですね、と返した。
金持ちには良くあるように、俺も名門と呼ばれる大学の付属幼稚園に入れられ、そのまま持ち上がって大学まで進んだ。どう考えてもすんなり進めるわけはないんだが、ともかく進んだ。
同じようなルートを辿る同じような金持ち連中はしばしば派閥のような、グループのようなものを作る。俺と奴は同じグループに属していた。大学の卒業までは何かと集まっていたらしい。一般的にそういうのは「幼なじみ」とでも言うんだろうか。所詮親同士の繋がりでしかないそんな関係が馬鹿らしくて俺は距離を置いていたが、それでも奴だけはしばしば俺の前に現れ、結局無駄になる誘いを繰り返していた。
グラスが微かな音を立てて触れ合うと、二人の間でピンク色の泡が小さく弾けた。
「いつ、こっちに?」
「一昨日です。うちの父も急で困りますよ」
「辞令は出たんだろ。昇進して本社に凱旋か」
「たいした事ありません。あちこち転勤を繰り返して昇進するより、昇進はゆっくりでいいから本社でって父にも言ったんですけど、怒鳴られちゃいました」
「期待されてんだろ」
照れたような笑顔で奴は首を振った。いかにも育ちが良さそうな、ふんわりと分けた柔らかそうな髪が揺れる。
「逆ですよ、頼りないと思われているんでしょう」
「ふうん」
奴の事はずっと嫌いだった。丁寧語で話されるとなんだか馬鹿にされている気がしてしょうがなかった。ただ大学を卒業してからも思い出したように連絡を寄越し、会おうと誘ってくるから、時々はこうして乗ってやっている。
喉を通り過ぎる泡がやけにピリピリと沁みた。
「そちらこそ、お兄様が社長になられたと聞いてますよ。社長の片腕として頑張っているのでしょう?」
俺は表情を変えないように気をつけながら、まあね、と言った。確かに兄貴は社長に就任した。そして俺は就任を待たずに首を切られた。もちろん奴はそんな事は知らない。
「この間西浦と会ったんですよ。昇進して部長になったらしいですね。でも泣いてました。部下が言う事を聞かない、出世が早すぎて反感を買ったんじゃないか、って」
面白そうに笑う奴に合わせて俺も口の端を少し歪めた。奴はまるで女みたいに噂好きなところがあって、昔から聞きたくもない他人の話を聞かされたものだ。
「まあ、妬まれる事もあるんでしょうけど、管理以前にきちんと実務をやっていれば他の社員にも自然に認められていくものですよ。そうでしょう?」
泡が弾ける。
俺はグラスを一気に空けて、仕事の話はやめよう、と言った。そうですね、と奴は笑顔で頷いた。
五杯目を飲み干したとき、天井が回った。俺は一瞬自分が何処に居るのかわからなくなった。
何も変わらないはずだったろう?
親父が死んだところで、何も。
「そうそう、戸部、覚えてますか?」
「はあ?」
俺の言葉はいつもにも増して乱暴になった。酔い始めた証拠だ。
「戸部ですよ。戸部真奈美」
「別に忘れてねえよ」
浮かんだ姿は何故か中学生だ。色白で小太りで、いつも陰に隠れるようにして俯いてスカートを気にしていた戸部。
「中学の頃、戸部が貴方を好きだった事は知らないでしょう?」
「あ?」
「言わないようにって頼まれてますけど、内緒ですよ」
何か言おうとしたがうまく言葉が出ない。高校の、大学時代の戸部を思い出そうとしてみたが頭に靄でもかかっているように、うまくいかない。奴の楽しげな顔に心で舌打ちをして、俺はようやく言葉をひねり出した。
「……冗談だろ?」
「中学二年の時、急に授業に出てこなくなったじゃないですか。うちの学校でサボタージュなんかするのは貴方くらいでしたからね、新鮮だったみたいで」
俺はグラスを呷った。壁もテーブルもぐるりと回る。
「他にも貴方に憧れていた女性はいたらしいですよ、戸部に限らず」
「信じられないな」
「ええ」
俺のグラスに注がれる液体。ピンク色の泡が貼り付いた丸いグラスの底に奴の顔がゆらりと浮かんだ。
「戸部の想いもすぐに醒めましたから。まあ、そうなります。事実を知れば」
「事実?」
確か、父親と大喧嘩をしたんだった。
兄貴まで巻き込んだ大喧嘩だったのに、喧嘩の理由が思い出せない。きっと些細な事なのだろう。ただ覚えているのは、次の日から俺はストライキを始めたという事。ただ、勉強をしない、それだけのストライキ。
「母親の事ですよ」
「母親?」
俺はグラスの底を見つめた。グラスの底で奴はアバタのように顔に泡を乗せて、ゆらゆらと揺れていた。
「ええ。貴方が小学一年の時に出て行った母親の事です」
忘れていた記憶が泡のように浮かび上がってくる。しかしそれは掴もうとするとぱちんと弾けた。
「母親が出て行ったのは父親のせいだ、そう言って泣きながら殴り掛かったそうじゃないですか」
泡がふたつ底を離れた時、奴がにやりと笑ったのが見えた。
「ご存じないんでしょうけど、僕たちの中で親との関係に問題の無い人は少ない。親が忙しすぎるし、夫婦仲も大抵はおかしい。なのに、中学生にもなってあまりにも子供っぽすぎるって、それで戸部の気持ちは終わったようです。みんなそれぞれに親との関係を探りながら暮らしてい」
「ちょっと待て」
泡が弾ける。
「……誰から聞いた?」
「わからないんですか?」
グラスの底で奴の顔がぐにゃりと歪んだ。一斉に泡が立ち上る。俺は奴を飲み込むようにグラスを飲み干した。
「はっきり言え!」
顔を上げた俺の前には、いつもと変わらない笑顔でまっすぐに俺を見つめる「奴」がいた。
「貴方の行動は一時的なものだと僕たちは思っていました。大人のつもりで居ても中学生、反抗期ですからね。だけど貴方はそのままサボタージュを続けた。本来なら高校進学は難しかった。貴方が進学できたのは父親の寄付金のおかげでしょう。今思うと進学できた事が良くなかったのかもしれません。貴方は勉強するでも無く、かと言って学校を辞めるでも無く、ただ無為な時間を過ごし始めた」
俺の問いに奴は答えなかった。変わりなく穏やかな奴の顔が俺から現実感を奪う。
「貴方はそもそも僕たちの、グループというものが何かわかっていないでしょう? 幼なじみであると同時に、社会人になった時の貴重な人脈なんですよ。貴方は子供じみていて、しかも怠け者で、勉強もできないただの馬鹿だ。でも、重役や社長になる可能性が少しでもあるのなら関係は切れない。だから僕が時々様子を見に行っていたんです」
奴の言葉が外国語のように聞こえ始めた頃、目の前にぼんやりと映像が浮かんだ。いつの事だったのだろう。街で偶然見かけた兄貴の、横の女性。見た事のある、誰か。
……戸部?
「でも、それも結局無駄でした。どう考えたって貴方は恵まれていた。気付きさえすれば、貴方がちゃんと自分の姿を鏡に写してさえいれば、いつだって正規のコースに戻れた。それなのに貴方は反抗という名の甘えにどっぷりと浸かって……」
泡が弾けた。
俺は奴の胸倉を掴んだ。ガタンと椅子が音を立てる。店中の視線が一斉にこちらを向いた。
「兄貴か」
あいつはもう駄目だ。
兄貴の声がまるで実際に聞いたかのように頭に響く。奴はにやりと笑う事で無言の返事を返した。ウエイターがこちらに飛んでくるのが目の端に見え、俺は奴から手を離し、席を立った。
ぐるりと床が回る。
「そのツラ、二度と見せんな」
そう言ってふらつきながら財布を出そうとする俺の横に奴が歩み寄った。
「言われなくても、もう二度と連絡もしません。今日はお別れを言いにきたんです。それから、ここは僕が払います」
奴が俺の耳元に口を寄せて囁いた。
「社会人として、無職に払わせるわけにはいかないんですよ」
床が落ちる。
踵を返した奴が突然声を殺して笑い始めた。そして俺に後ろを向くよう示した。振り向くとそこには鏡張りの太い柱があった。
仄かな光に二人が写し出されている。童顔だと思っていた奴はいつの間にか年相応の顔つきになり、高級なスーツを自然に着こなした姿には社会人としての自信すら垣間見える。そして、奴の横には。不健康にむくんだ顔は青ざめて見え、高級なスーツにもこの場所にも全くそぐわない。テーブルに体を預けて猫背で突っ立っている姿は滑稽なほどアンバランスで、まるで子供が父親のスーツを着ているようにすら見えた。
やりたい事なんて無くなっていた。
遺産の使い道なんて、ひとつもなかった。
こんなふうに、なりたかったのか?
歩き始めた奴の姿は次第にぼんやりと霞み、そのうちに天井もテーブルも椅子も全てが回り始めた。膝をついた俺にウエイターが駆け寄る。体に走る鈍い痛みだけが俺を現実に繋ぎ止めていた。
生演奏のピアノが流れるバーで、奴は俺を見つけると軽く会釈をした。
「二年ぶりだっけ?」
俺の言葉に奴は少し苦笑するように俯き、昔と同じ穏やかな笑顔で、三年ぶりですね、と返した。
金持ちには良くあるように、俺も名門と呼ばれる大学の付属幼稚園に入れられ、そのまま持ち上がって大学まで進んだ。どう考えてもすんなり進めるわけはないんだが、ともかく進んだ。
同じようなルートを辿る同じような金持ち連中はしばしば派閥のような、グループのようなものを作る。俺と奴は同じグループに属していた。大学の卒業までは何かと集まっていたらしい。一般的にそういうのは「幼なじみ」とでも言うんだろうか。所詮親同士の繋がりでしかないそんな関係が馬鹿らしくて俺は距離を置いていたが、それでも奴だけはしばしば俺の前に現れ、結局無駄になる誘いを繰り返していた。
グラスが微かな音を立てて触れ合うと、二人の間でピンク色の泡が小さく弾けた。
「いつ、こっちに?」
「一昨日です。うちの父も急で困りますよ」
「辞令は出たんだろ。昇進して本社に凱旋か」
「たいした事ありません。あちこち転勤を繰り返して昇進するより、昇進はゆっくりでいいから本社でって父にも言ったんですけど、怒鳴られちゃいました」
「期待されてんだろ」
照れたような笑顔で奴は首を振った。いかにも育ちが良さそうな、ふんわりと分けた柔らかそうな髪が揺れる。
「逆ですよ、頼りないと思われているんでしょう」
「ふうん」
奴の事はずっと嫌いだった。丁寧語で話されるとなんだか馬鹿にされている気がしてしょうがなかった。ただ大学を卒業してからも思い出したように連絡を寄越し、会おうと誘ってくるから、時々はこうして乗ってやっている。
喉を通り過ぎる泡がやけにピリピリと沁みた。
「そちらこそ、お兄様が社長になられたと聞いてますよ。社長の片腕として頑張っているのでしょう?」
俺は表情を変えないように気をつけながら、まあね、と言った。確かに兄貴は社長に就任した。そして俺は就任を待たずに首を切られた。もちろん奴はそんな事は知らない。
「この間西浦と会ったんですよ。昇進して部長になったらしいですね。でも泣いてました。部下が言う事を聞かない、出世が早すぎて反感を買ったんじゃないか、って」
面白そうに笑う奴に合わせて俺も口の端を少し歪めた。奴はまるで女みたいに噂好きなところがあって、昔から聞きたくもない他人の話を聞かされたものだ。
「まあ、妬まれる事もあるんでしょうけど、管理以前にきちんと実務をやっていれば他の社員にも自然に認められていくものですよ。そうでしょう?」
泡が弾ける。
俺はグラスを一気に空けて、仕事の話はやめよう、と言った。そうですね、と奴は笑顔で頷いた。
五杯目を飲み干したとき、天井が回った。俺は一瞬自分が何処に居るのかわからなくなった。
何も変わらないはずだったろう?
親父が死んだところで、何も。
「そうそう、戸部、覚えてますか?」
「はあ?」
俺の言葉はいつもにも増して乱暴になった。酔い始めた証拠だ。
「戸部ですよ。戸部真奈美」
「別に忘れてねえよ」
浮かんだ姿は何故か中学生だ。色白で小太りで、いつも陰に隠れるようにして俯いてスカートを気にしていた戸部。
「中学の頃、戸部が貴方を好きだった事は知らないでしょう?」
「あ?」
「言わないようにって頼まれてますけど、内緒ですよ」
何か言おうとしたがうまく言葉が出ない。高校の、大学時代の戸部を思い出そうとしてみたが頭に靄でもかかっているように、うまくいかない。奴の楽しげな顔に心で舌打ちをして、俺はようやく言葉をひねり出した。
「……冗談だろ?」
「中学二年の時、急に授業に出てこなくなったじゃないですか。うちの学校でサボタージュなんかするのは貴方くらいでしたからね、新鮮だったみたいで」
俺はグラスを呷った。壁もテーブルもぐるりと回る。
「他にも貴方に憧れていた女性はいたらしいですよ、戸部に限らず」
「信じられないな」
「ええ」
俺のグラスに注がれる液体。ピンク色の泡が貼り付いた丸いグラスの底に奴の顔がゆらりと浮かんだ。
「戸部の想いもすぐに醒めましたから。まあ、そうなります。事実を知れば」
「事実?」
確か、父親と大喧嘩をしたんだった。
兄貴まで巻き込んだ大喧嘩だったのに、喧嘩の理由が思い出せない。きっと些細な事なのだろう。ただ覚えているのは、次の日から俺はストライキを始めたという事。ただ、勉強をしない、それだけのストライキ。
「母親の事ですよ」
「母親?」
俺はグラスの底を見つめた。グラスの底で奴はアバタのように顔に泡を乗せて、ゆらゆらと揺れていた。
「ええ。貴方が小学一年の時に出て行った母親の事です」
忘れていた記憶が泡のように浮かび上がってくる。しかしそれは掴もうとするとぱちんと弾けた。
「母親が出て行ったのは父親のせいだ、そう言って泣きながら殴り掛かったそうじゃないですか」
泡がふたつ底を離れた時、奴がにやりと笑ったのが見えた。
「ご存じないんでしょうけど、僕たちの中で親との関係に問題の無い人は少ない。親が忙しすぎるし、夫婦仲も大抵はおかしい。なのに、中学生にもなってあまりにも子供っぽすぎるって、それで戸部の気持ちは終わったようです。みんなそれぞれに親との関係を探りながら暮らしてい」
「ちょっと待て」
泡が弾ける。
「……誰から聞いた?」
「わからないんですか?」
グラスの底で奴の顔がぐにゃりと歪んだ。一斉に泡が立ち上る。俺は奴を飲み込むようにグラスを飲み干した。
「はっきり言え!」
顔を上げた俺の前には、いつもと変わらない笑顔でまっすぐに俺を見つめる「奴」がいた。
「貴方の行動は一時的なものだと僕たちは思っていました。大人のつもりで居ても中学生、反抗期ですからね。だけど貴方はそのままサボタージュを続けた。本来なら高校進学は難しかった。貴方が進学できたのは父親の寄付金のおかげでしょう。今思うと進学できた事が良くなかったのかもしれません。貴方は勉強するでも無く、かと言って学校を辞めるでも無く、ただ無為な時間を過ごし始めた」
俺の問いに奴は答えなかった。変わりなく穏やかな奴の顔が俺から現実感を奪う。
「貴方はそもそも僕たちの、グループというものが何かわかっていないでしょう? 幼なじみであると同時に、社会人になった時の貴重な人脈なんですよ。貴方は子供じみていて、しかも怠け者で、勉強もできないただの馬鹿だ。でも、重役や社長になる可能性が少しでもあるのなら関係は切れない。だから僕が時々様子を見に行っていたんです」
奴の言葉が外国語のように聞こえ始めた頃、目の前にぼんやりと映像が浮かんだ。いつの事だったのだろう。街で偶然見かけた兄貴の、横の女性。見た事のある、誰か。
……戸部?
「でも、それも結局無駄でした。どう考えたって貴方は恵まれていた。気付きさえすれば、貴方がちゃんと自分の姿を鏡に写してさえいれば、いつだって正規のコースに戻れた。それなのに貴方は反抗という名の甘えにどっぷりと浸かって……」
泡が弾けた。
俺は奴の胸倉を掴んだ。ガタンと椅子が音を立てる。店中の視線が一斉にこちらを向いた。
「兄貴か」
あいつはもう駄目だ。
兄貴の声がまるで実際に聞いたかのように頭に響く。奴はにやりと笑う事で無言の返事を返した。ウエイターがこちらに飛んでくるのが目の端に見え、俺は奴から手を離し、席を立った。
ぐるりと床が回る。
「そのツラ、二度と見せんな」
そう言ってふらつきながら財布を出そうとする俺の横に奴が歩み寄った。
「言われなくても、もう二度と連絡もしません。今日はお別れを言いにきたんです。それから、ここは僕が払います」
奴が俺の耳元に口を寄せて囁いた。
「社会人として、無職に払わせるわけにはいかないんですよ」
床が落ちる。
踵を返した奴が突然声を殺して笑い始めた。そして俺に後ろを向くよう示した。振り向くとそこには鏡張りの太い柱があった。
仄かな光に二人が写し出されている。童顔だと思っていた奴はいつの間にか年相応の顔つきになり、高級なスーツを自然に着こなした姿には社会人としての自信すら垣間見える。そして、奴の横には。不健康にむくんだ顔は青ざめて見え、高級なスーツにもこの場所にも全くそぐわない。テーブルに体を預けて猫背で突っ立っている姿は滑稽なほどアンバランスで、まるで子供が父親のスーツを着ているようにすら見えた。
やりたい事なんて無くなっていた。
遺産の使い道なんて、ひとつもなかった。
こんなふうに、なりたかったのか?
歩き始めた奴の姿は次第にぼんやりと霞み、そのうちに天井もテーブルも椅子も全てが回り始めた。膝をついた俺にウエイターが駆け寄る。体に走る鈍い痛みだけが俺を現実に繋ぎ止めていた。
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