2. 自宅 ― 2008年06月07日 21時13分10秒
※6/15 全体的にちょろっと書き換えました。そんなに変わってません。
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部屋のドアをばたんと閉めると、耳慣れた静けさが少しは戻ったような気がした。今日は朝早くから人の動きが絶える事がない。まあ、当分はこんな感じなんだろう。俺はわざと乱暴にベッドに飛び込みぼんやりと天井を眺めた。部屋の壁に掛けられた黒のスーツはついこの間誂えたものだ。
まるで、こうなる事を予知してたみたいだろう? 予知とかできるのかな、俺。
自分の考えが馬鹿馬鹿しくて不意に笑いそうになり、笑いそうになった自分に自分で驚いた。本当に突然で、あんまり急すぎて、実感がわかないだけだ。なんだか嫌な気分になって俺は壁に背中を向けた。
親父は早朝のゴルフ場で突然倒れたらしい。心筋梗塞。休日の朝に突然未亡人になった継母の泣きっぷりは凄まじかった。干涸びてしまうんじゃないかと思ったほどだ。でも今朝会った継母はしっかりとした顔で葬儀社の人と普通に話をしていた。『女は強し』だったっけ? まあ、そんなものなんだろう。
凄いもんだな。あの若さで、遺産がっぽりだ。天井の模様を眺めながらとりとめも無いことを考えていると、不意にドアが開いた。
「やっぱりここか。何サボってんだ」
寝転んだままでドアの方に顔を向けると、逆さになった兄貴の仏頂面が見える。
「いいだろ。始まったら行くよ」
「馬鹿。準備がどれだけ大変だと思ってんだ」
「ならするなよ。内々でやるにしたってなにも自宅でやる事はないんだ通夜なんて。葬儀場でちょちょちょいとやってしまえばいいんだよ」
「決まった事に今更口を出すな」
無言で背を向けた俺に兄貴は怒ったような息を吐き出した。
「お前はいっつもそうだ。準備は来ないなら来ないでもいい。その代わり明後日、臨時取締役会を開くからお前絶対に出席しろ。いいな」
「なんだそれ。聞いてない」
「当たり前だ。親父の、社長の社葬について話し合うんだからな。今後の体制も早急に決めなきゃならない」
「俺、そういうの出た事無いって知ってんだろ?」
「ああ。よく知ってる。親父がどれだけ他の役員に突き上げを食らってきたかもな。親父がいない今、俺じゃお前を守りきれないぞ。もし出席しなかったらどうなるか、わかってるよな」
よく言うよ。守る気なんてさらさら無い癖に。
確かに言ったからな、と捨て台詞を残しドアが音を立てて閉まった。ドタドタうるさい足音が遠ざかるのを聞きながら俺はまた天井の模様を眺めた。
親父も面倒な事してるから駄目なんだよ。小遣いをくれるなら直接くれりゃあ良かったんだ。
目を細めると天井の模様は流れる雲のように見える。しばらく眺めていると体が沈んでいく感覚とともにその雲がぐるぐると回り始めた。目が覚めたら通夜なんて終わってたり、しないかな。そんな思いつきに苦笑しながら俺はゆっくりとベッドに沈んでいった。
読経もふるまいも終わり、部屋に残っているのはごく近い親族だけになっていた。様々な人が行き交い蒸し暑かったこの部屋も、今はだいぶん涼しくなっている。
酒というよりは人に酔ったのかもしれない。胸がむかつくのを堪えながら俺は座敷に横たわっていた叔父を引き起こした。
「ちょっと、飲み過ぎだって」
呂律の回らない口でむにゃむにゃと呟いた叔父は俺の顔を見ると途端に目の色を変えた。
「お前か。座れ」
逆らえば厄介なのはわかりきっている。俺は仕方なく叔父の前に座った。
「お前、学校出て何年になる」
酒臭い息が顔にかかる。俺は小さい声で、五年、と呟いた。
「はあ? 何だって?」
「ご、ね、ん!」
こんなやり取りはもう何十回目だろう。この後はまるでテープでも再生しているかのように同じ台詞が続く。
「兄さんがなあ、言ってたんだよ俺に。あいつは今でこそあんな風だけど、根は真面目だからそのうちやりたい事が見つかると思う、その時に職歴が無いんじゃ不都合かもしれないしお金が無いのも可哀想だ、って。もちろん俺は言ったさ、そうやって甘やかすからいつまでもだらだらしてるんだ、放り出して自活させないと駄目になる、って。でもな、兄さんがな、泣くんだよ。あいつにしてやれる事はこのくらいだからって、俺の前でな……」
あとは言葉にならない。俺はえぐえぐと声を出してみっともなく泣いている叔父の手を引いた。蒲団を敷いた部屋に叔父を放り込んだ後、うんざりとした気分で俺は自分の部屋に向かった。
棺を安置している部屋から光が漏れていた。覗いてみると薄明かりの中で棺に継母が寄り添っている。夜伽なんてしなくていいと言われているのに、だ。昼間はあんなにしっかりしているように見えたのに通夜の最中は誰か来るたびに涙ぐみ、棺の中を確認するたびにどこから出てくるんだと不思議になるくらいの涙を溢れさせていた継母。
俺も棺の中の親父を見た。小さな窓から見える、白い菊に埋まった顔。きれいに髪を撫で付けられささやかな死化粧を施されている顔は一目見ただけでは寝ているのと区別がつかない。鼻に詰められた綿だけが違和感を呼び、その度に俺は目の前の親父が死体である事を思い出した。
親父の死体。
それ以上の感情は無かった。ふと顔を上げると兄貴までがハンカチで目頭を押さえていた。俺は周囲を見回した。
悲しんでいないのは、俺だけだ。
スーツを脱いでベッドに横になると、俺は急に不安になった。何か大事な事を忘れているような気がする。このベッドも、この部屋も、時限爆弾の上にある事は間違いが無い。俺は取締役会なんて出る気はないし、そうすればどうなるかもわかっている。
いや、違う……そんな事じゃなくて。
考えてみようとしたが、すぐに天井の雲はぐるぐると回り始めた。
心配ない。
時限爆弾はすぐには爆発しない。
遺産があるんだから、しばらくはしのげるさ。
俺は羊の代わりに遺産を数えながら眠りに落ちていった。
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部屋のドアをばたんと閉めると、耳慣れた静けさが少しは戻ったような気がした。今日は朝早くから人の動きが絶える事がない。まあ、当分はこんな感じなんだろう。俺はわざと乱暴にベッドに飛び込みぼんやりと天井を眺めた。部屋の壁に掛けられた黒のスーツはついこの間誂えたものだ。
まるで、こうなる事を予知してたみたいだろう? 予知とかできるのかな、俺。
自分の考えが馬鹿馬鹿しくて不意に笑いそうになり、笑いそうになった自分に自分で驚いた。本当に突然で、あんまり急すぎて、実感がわかないだけだ。なんだか嫌な気分になって俺は壁に背中を向けた。
親父は早朝のゴルフ場で突然倒れたらしい。心筋梗塞。休日の朝に突然未亡人になった継母の泣きっぷりは凄まじかった。干涸びてしまうんじゃないかと思ったほどだ。でも今朝会った継母はしっかりとした顔で葬儀社の人と普通に話をしていた。『女は強し』だったっけ? まあ、そんなものなんだろう。
凄いもんだな。あの若さで、遺産がっぽりだ。天井の模様を眺めながらとりとめも無いことを考えていると、不意にドアが開いた。
「やっぱりここか。何サボってんだ」
寝転んだままでドアの方に顔を向けると、逆さになった兄貴の仏頂面が見える。
「いいだろ。始まったら行くよ」
「馬鹿。準備がどれだけ大変だと思ってんだ」
「ならするなよ。内々でやるにしたってなにも自宅でやる事はないんだ通夜なんて。葬儀場でちょちょちょいとやってしまえばいいんだよ」
「決まった事に今更口を出すな」
無言で背を向けた俺に兄貴は怒ったような息を吐き出した。
「お前はいっつもそうだ。準備は来ないなら来ないでもいい。その代わり明後日、臨時取締役会を開くからお前絶対に出席しろ。いいな」
「なんだそれ。聞いてない」
「当たり前だ。親父の、社長の社葬について話し合うんだからな。今後の体制も早急に決めなきゃならない」
「俺、そういうの出た事無いって知ってんだろ?」
「ああ。よく知ってる。親父がどれだけ他の役員に突き上げを食らってきたかもな。親父がいない今、俺じゃお前を守りきれないぞ。もし出席しなかったらどうなるか、わかってるよな」
よく言うよ。守る気なんてさらさら無い癖に。
確かに言ったからな、と捨て台詞を残しドアが音を立てて閉まった。ドタドタうるさい足音が遠ざかるのを聞きながら俺はまた天井の模様を眺めた。
親父も面倒な事してるから駄目なんだよ。小遣いをくれるなら直接くれりゃあ良かったんだ。
目を細めると天井の模様は流れる雲のように見える。しばらく眺めていると体が沈んでいく感覚とともにその雲がぐるぐると回り始めた。目が覚めたら通夜なんて終わってたり、しないかな。そんな思いつきに苦笑しながら俺はゆっくりとベッドに沈んでいった。
読経もふるまいも終わり、部屋に残っているのはごく近い親族だけになっていた。様々な人が行き交い蒸し暑かったこの部屋も、今はだいぶん涼しくなっている。
酒というよりは人に酔ったのかもしれない。胸がむかつくのを堪えながら俺は座敷に横たわっていた叔父を引き起こした。
「ちょっと、飲み過ぎだって」
呂律の回らない口でむにゃむにゃと呟いた叔父は俺の顔を見ると途端に目の色を変えた。
「お前か。座れ」
逆らえば厄介なのはわかりきっている。俺は仕方なく叔父の前に座った。
「お前、学校出て何年になる」
酒臭い息が顔にかかる。俺は小さい声で、五年、と呟いた。
「はあ? 何だって?」
「ご、ね、ん!」
こんなやり取りはもう何十回目だろう。この後はまるでテープでも再生しているかのように同じ台詞が続く。
「兄さんがなあ、言ってたんだよ俺に。あいつは今でこそあんな風だけど、根は真面目だからそのうちやりたい事が見つかると思う、その時に職歴が無いんじゃ不都合かもしれないしお金が無いのも可哀想だ、って。もちろん俺は言ったさ、そうやって甘やかすからいつまでもだらだらしてるんだ、放り出して自活させないと駄目になる、って。でもな、兄さんがな、泣くんだよ。あいつにしてやれる事はこのくらいだからって、俺の前でな……」
あとは言葉にならない。俺はえぐえぐと声を出してみっともなく泣いている叔父の手を引いた。蒲団を敷いた部屋に叔父を放り込んだ後、うんざりとした気分で俺は自分の部屋に向かった。
棺を安置している部屋から光が漏れていた。覗いてみると薄明かりの中で棺に継母が寄り添っている。夜伽なんてしなくていいと言われているのに、だ。昼間はあんなにしっかりしているように見えたのに通夜の最中は誰か来るたびに涙ぐみ、棺の中を確認するたびにどこから出てくるんだと不思議になるくらいの涙を溢れさせていた継母。
俺も棺の中の親父を見た。小さな窓から見える、白い菊に埋まった顔。きれいに髪を撫で付けられささやかな死化粧を施されている顔は一目見ただけでは寝ているのと区別がつかない。鼻に詰められた綿だけが違和感を呼び、その度に俺は目の前の親父が死体である事を思い出した。
親父の死体。
それ以上の感情は無かった。ふと顔を上げると兄貴までがハンカチで目頭を押さえていた。俺は周囲を見回した。
悲しんでいないのは、俺だけだ。
スーツを脱いでベッドに横になると、俺は急に不安になった。何か大事な事を忘れているような気がする。このベッドも、この部屋も、時限爆弾の上にある事は間違いが無い。俺は取締役会なんて出る気はないし、そうすればどうなるかもわかっている。
いや、違う……そんな事じゃなくて。
考えてみようとしたが、すぐに天井の雲はぐるぐると回り始めた。
心配ない。
時限爆弾はすぐには爆発しない。
遺産があるんだから、しばらくはしのげるさ。
俺は羊の代わりに遺産を数えながら眠りに落ちていった。
1. 歯医者 ― 2008年05月27日 00時07分34秒
「暑いな」
夕方近く、歯医者の待合室にはクーラーの動作音とテレビの音だけがかすかに響いている。
「毎日、な」
俺の隣で小学五年生の姪は足をぶらぶらさせながら漫画を読んでいる。話しかけた俺の方を振り向くこともない。無視されること、それ自体に腹は立たない。それとなく義姉に頼まれていたとは言え無理に付き合ったのは俺の方だ。
「暇だな」
俯いていた顎が不意に動き、こちらを覗き見るような気配がする。
「何処行くんだ」
「歯医者」
「一人でか?」
「……」
「付き合ってやろうか」
「いい」
「ほら、最近この辺も物騒だって言うしな」
「すぐそこだし」
「遠慮すんなって」
「してない」
「いいんだよ、どうせ暇なんだしさ」
あの時も、俺のその言葉で姪が振り向いた。意味ありげに俺の顔をじーっと見つめる姪の顔が一瞬にやっと笑ったように見えた。そのまま視線を外しスニーカーの紐を結んで出かける姪の後を追うようにして、結局俺はここへ来た。
なす術も無く俺は待合室のソファーに座ってぼんやりとテレビを眺めていた。派手な顔のレポーターの赤すぎる口、強調しすぎた目がくるくると動く。ナントカ動物園でナントカの赤ちゃんが生まれたとか、そういうニュースをハイテンションで喋り続ける。
週末のお出かけに。
週末。
だからと言って、何かが変わる訳じゃない。俺は無意識に舌打ちか何かしたのかもしれない。ふと気がつくと、漫画本を横に置いた姪がじっと俺の顔を見ていた。
「何?」
「ううん。別に」
そう言いながら姪は視線をそらさない。口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。姪の顔が、俺を見る目の光が、たまに集まれば俺の噂話にきりがない親戚たちに重なる。
「何か付いてるか? 顔に」
出来るだけ静かに尋ねた俺の前で、堪えるように結んでいた口がようやく開いた。
「……おじさんって、毎日何やってるの?」
いきなり失礼な奴だ。
「何、って言われても」
「じゃ、昨日は?」
「昨日はほら、お母さんの従姉妹が隣町に住んでるって聞いたからさ、挨拶に」
母親、といっても血のつながりはない。父親の後妻に入った人で俺と大して年も違わない。
「ああ、訊きに来たよね。手土産何がいいと思う? だっけ」
「だろ」
「用事があったの?」
「いや、ほんの挨拶って奴だよ。今まで会ったことも無かったんだし、まあ一度くらいはさ」
「……そういうのをさあ、暇って言うんじゃないの?」
やっぱり失礼な奴だ。どんな教育してんだ兄貴は。
「大人には大人の付き合い方があるんだ。大事なことなんだよ」
心の中を押し隠してやんわりと注意した俺を見ながら姪の顔がみるみる赤くなった。失礼を恥じているのかと別の言葉を探した瞬間、姪はぷっと吹き出し声を立てずに笑い始めた。
「おじさん、それ水曜日。一昨日だよ」
「えっ?」
俺は随分間抜けな顔をしたんだろう。姪の肩がいっそう激しく震え始めた。
「でさ、昨日は何してたの? おじさん」
俺は大人らしくびしっと言い返す言葉を考えながら、頭の中で昨日の出来事を辿っていた。たぐり寄せた糸は少し力を入れるとぷっつりと切れた。切れ端を握って俺は呆然と佇んだ。
思い出せない。
姪はソファーに突っ伏して笑い始めた。足をばたばたとさせる音だけが待合室に鈍く響いた。
「お医者さんになるんだ。将来」
治療を済ませて待合室に戻ってきた姪が俺の隣に座るや否や、こう話し始めた。
「だから、病院に行くたびにお医者さんの様子をよーく観察するの」
医者なんてどうせ親が押し付けた夢に違いない。うんざりと生返事を返す俺に姪が言った。
「おじさんの夢は?」
「夢?」
そんなことを考えるのは何年ぶりなんだろう。俺の頭の中の「夢」が収まるべき場所を覗き込むと、そこには名前も付けられないガラクタが濃い霧に包まれて転がっているだけだった。
「ないんだー。だからそんなふうなんだよ」
すべてお見通し、と言わんばかりの姪の声がする。今度こそ怒鳴ってやろうかと思いながら俺はぶっきらぼうに言った。
「お前くらいの頃には夢があったさ。お前もわからないよ、将来どうなるかなんて」
「おじさんみたいにはならないよ。鏡を見るもん」
「鏡?」
振り向くと姪は俺のほうを見ていない。すました顔でどこか遠くを見ていた。
「たとえ夢が叶わなくても、鏡を見てきちんと生きていれば大丈夫だって。掛け違えたボタンを見ない振りするような、そんな大人にはなるな、って」
誰の受け売りだ?
そう訊こうとした瞬間受付で姪の名が呼ばれた。子供らしい返事をして椅子から飛び降り受付の方へ駆け出すその後ろ姿に、俺はこっそりとしかめっ面をした。
夕方近く、歯医者の待合室にはクーラーの動作音とテレビの音だけがかすかに響いている。
「毎日、な」
俺の隣で小学五年生の姪は足をぶらぶらさせながら漫画を読んでいる。話しかけた俺の方を振り向くこともない。無視されること、それ自体に腹は立たない。それとなく義姉に頼まれていたとは言え無理に付き合ったのは俺の方だ。
「暇だな」
俯いていた顎が不意に動き、こちらを覗き見るような気配がする。
「何処行くんだ」
「歯医者」
「一人でか?」
「……」
「付き合ってやろうか」
「いい」
「ほら、最近この辺も物騒だって言うしな」
「すぐそこだし」
「遠慮すんなって」
「してない」
「いいんだよ、どうせ暇なんだしさ」
あの時も、俺のその言葉で姪が振り向いた。意味ありげに俺の顔をじーっと見つめる姪の顔が一瞬にやっと笑ったように見えた。そのまま視線を外しスニーカーの紐を結んで出かける姪の後を追うようにして、結局俺はここへ来た。
なす術も無く俺は待合室のソファーに座ってぼんやりとテレビを眺めていた。派手な顔のレポーターの赤すぎる口、強調しすぎた目がくるくると動く。ナントカ動物園でナントカの赤ちゃんが生まれたとか、そういうニュースをハイテンションで喋り続ける。
週末のお出かけに。
週末。
だからと言って、何かが変わる訳じゃない。俺は無意識に舌打ちか何かしたのかもしれない。ふと気がつくと、漫画本を横に置いた姪がじっと俺の顔を見ていた。
「何?」
「ううん。別に」
そう言いながら姪は視線をそらさない。口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。姪の顔が、俺を見る目の光が、たまに集まれば俺の噂話にきりがない親戚たちに重なる。
「何か付いてるか? 顔に」
出来るだけ静かに尋ねた俺の前で、堪えるように結んでいた口がようやく開いた。
「……おじさんって、毎日何やってるの?」
いきなり失礼な奴だ。
「何、って言われても」
「じゃ、昨日は?」
「昨日はほら、お母さんの従姉妹が隣町に住んでるって聞いたからさ、挨拶に」
母親、といっても血のつながりはない。父親の後妻に入った人で俺と大して年も違わない。
「ああ、訊きに来たよね。手土産何がいいと思う? だっけ」
「だろ」
「用事があったの?」
「いや、ほんの挨拶って奴だよ。今まで会ったことも無かったんだし、まあ一度くらいはさ」
「……そういうのをさあ、暇って言うんじゃないの?」
やっぱり失礼な奴だ。どんな教育してんだ兄貴は。
「大人には大人の付き合い方があるんだ。大事なことなんだよ」
心の中を押し隠してやんわりと注意した俺を見ながら姪の顔がみるみる赤くなった。失礼を恥じているのかと別の言葉を探した瞬間、姪はぷっと吹き出し声を立てずに笑い始めた。
「おじさん、それ水曜日。一昨日だよ」
「えっ?」
俺は随分間抜けな顔をしたんだろう。姪の肩がいっそう激しく震え始めた。
「でさ、昨日は何してたの? おじさん」
俺は大人らしくびしっと言い返す言葉を考えながら、頭の中で昨日の出来事を辿っていた。たぐり寄せた糸は少し力を入れるとぷっつりと切れた。切れ端を握って俺は呆然と佇んだ。
思い出せない。
姪はソファーに突っ伏して笑い始めた。足をばたばたとさせる音だけが待合室に鈍く響いた。
「お医者さんになるんだ。将来」
治療を済ませて待合室に戻ってきた姪が俺の隣に座るや否や、こう話し始めた。
「だから、病院に行くたびにお医者さんの様子をよーく観察するの」
医者なんてどうせ親が押し付けた夢に違いない。うんざりと生返事を返す俺に姪が言った。
「おじさんの夢は?」
「夢?」
そんなことを考えるのは何年ぶりなんだろう。俺の頭の中の「夢」が収まるべき場所を覗き込むと、そこには名前も付けられないガラクタが濃い霧に包まれて転がっているだけだった。
「ないんだー。だからそんなふうなんだよ」
すべてお見通し、と言わんばかりの姪の声がする。今度こそ怒鳴ってやろうかと思いながら俺はぶっきらぼうに言った。
「お前くらいの頃には夢があったさ。お前もわからないよ、将来どうなるかなんて」
「おじさんみたいにはならないよ。鏡を見るもん」
「鏡?」
振り向くと姪は俺のほうを見ていない。すました顔でどこか遠くを見ていた。
「たとえ夢が叶わなくても、鏡を見てきちんと生きていれば大丈夫だって。掛け違えたボタンを見ない振りするような、そんな大人にはなるな、って」
誰の受け売りだ?
そう訊こうとした瞬間受付で姪の名が呼ばれた。子供らしい返事をして椅子から飛び降り受付の方へ駆け出すその後ろ姿に、俺はこっそりとしかめっ面をした。
記憶【下】 ― 2007年01月24日 08時15分19秒
【上】の続きです。
「なっ……」
思わず立ち上がった俺の動きを男達は一瞬で封じた。腕を後ろに捻り上げられ悲鳴を上げた俺の目の前に白い布が広げられたかと思うと、乱暴に両腕を布の中に突っ込まれた。布に取り付けられたベルトがかちりと音を立てる。
……拘束衣?
俺は腕を振り払うと片側の男の股間を力一杯蹴り飛ばした。おうと声を上げて男がひるんだ隙をついて俺はもう一人の男の股間を狙う。動きを読まれていた男に足を払われ、つんのめった俺の上から男がのしかかる。凄い力で無理に口を開けられたかと思うと、固いボールのようなものが突っ込まれた。苦い味が口に広がり、俺の全身からみるみる力が抜けた。
拘束衣はベルトでぎりぎりと縛り上げられ、俺は小指すら動かせない状態で転がされるようにソファーに投げ出された。口の中のボールが完全に顎と舌の動きを封じている。呼吸が苦しい。叫ぼうとする言葉は意味不明の呻き声にしかならない。
そんな俺の目の前に座り、医者は変わらず穏やかな微笑みを浮かべている。
「ボール、外してあげて」
頭の後ろでぱちんと音がしたと思うと、ボールが口から抜けた。苦い唾液を飲み込んで俺は叫んだ。
「どうして、こんな事を!」
「落ち着いて下さいね」
「説明しろ!!」
「それ以上興奮すると鎮静剤を打たなくちゃいけなくなりますよ」
あくまで穏やかな顔のまま繰り出された医者の言葉に、俺は凍った。
「あなたの症状は重篤です。緊急入院の必要がある。本来はそれ以上の事を説明する義務なんてありませんけどね、いいでしょう。お話しします」
眼鏡の奥の目が一瞬鋭くなったように、俺には見えた。
「病気だとでも言うのか?」
「その通り、あなたは妄想と現実の区別がつかず人を傷つける恐れがあります。その為、やむなく拘束させて頂きました」
「……俺が?」
笑い出しそうになった。俺が狂人だって? 馬鹿にするにも程がある。
「信じられないのも無理はありませんが、まあ一つ一つ説明しましょう。まず、現在あなたは無職です。工場は一年前に解雇されました。無断欠勤が直接の理由ですが、もともと解雇のタイミングを計られていたようですね」
「はぁ? お前、何言ってんだ」
「では、昨日は何をしていましたか? 仕事の内容は?」
「さっき言ったじゃないか。毎日同じ仕事の繰り返……」
昨日の出来事を思い出そうとしたその時、頭の中にざあっというノイズが鳴り響いた。それと同時に昨日の記憶がぐにゃりと歪み、チューニングの狂ったテレビのように像を結ばなくなった。
……何だ、これ。さっきまで俺は。俺の仕事は。確信はあるのに具体的な事柄が何一つ浮かばない。顔色の変わった俺を見て医者が満足そうに口の端を歪めた。
「そんなのはどうでもいい。問題は滝本恵子の事です。よくもまああれだけ自分に都合のいい妄想を作り出せるものだ」
「何だと?」
嫌な予感がした。医者は可笑しくてたまらないという顔で俯いて少し笑ってから、顔を上げた。
「あなたが彼女のパスケースを拾い、F女子大まで届けに行ったのは本当の事です。パスケースを届けに行く為の無断欠勤によってあなたは工場を解雇されたんですから。しかしそこからは大違いです。あなたは彼女が乗る電車に毎日乗り込み、嫌がる彼女に無理矢理つきまとい続けた。所謂ストーカーって奴です」
突拍子も無い話に俺は言葉すら出せなかった。こいつは、なんて事を。俺と恵子はあんなに愛し合って。
ざあっ。
「あなたの妄想の中では、彼女と付き合っている事になっていたようですね。ストーカーには良くあるタイプですよ。妄想を広げて行くうちに妄想が現実を浸食し、徐々に区別がつかなくなってゆく」
嘘だ。嘘だ嘘だ。電車の中の会話。恵子の笑顔。初めての約束。
ざああっ。
「嫌がる彼女の腕を掴んで馴れ馴れしい口をきくあなたに、彼女ははっきりと言った事があるそうです。やめて下さい、何故つきまとうんですか、と。あなたはこう答えた。何怒ってんだよ、この前お前の作った目玉焼き、とってもおいしかったよ。また作れよな、と」
焦げた目玉焼き、髪の匂い、彼女の胸の白さ。
ざあああっ。
「あなたのストーカー行為はそれだけでは収まらなかった。彼女の家を突き止めたあなたは無断で家に侵入し彼女の下着まで盗んでいる。そして、心配して付き添っていた彼女の男友達にカッターナイフで斬りつけるという事件を起こしたのが、今からちょうど一週間前のことです。もう放ってはおけないと私は彼女に頼まれて、ここへあなたを呼び出したわけです」
嘘だ嘘だ出鱈目だ。そんな事があるもんか。俺と、恵子は、あんなに愛し合って……。
何故、どうして何も思い出せない。こんな時に、何故。
「嘘だ!」
やっとそれだけ口にしたとき、俺は泣いていた。俺の記憶の中の恵子はもうノイズまじりの歪んだ像でしかなかった。俺と恵子が恋人同士だという確信すら揺らぎ始めていた。俺の信じた事、医者が言った事、どちらが本当なのか俺にはもうわからなかった。
俺は毎日、何をしてたんだ?
恵子と俺は、本当に……?
俺の様子を見て医者が満足げに笑みを見せた。眼鏡の奥の目が冷たく光った。その目を見た途端、俺の中の記憶が一つ、不意に像を結んだ。
「お前は!」
何故、今まで思い出さなかったんだ。俺はこいつを見た事があるじゃないか。恵子の家のそばで馴れ馴れしく恵子に近づくこの男を。その時のこいつの冷たく、嫌らしい目つきを。
「わかったぞ! お前は医者なんかじゃない。そもそもこんな場所が病院であるはずが無いんだ。これは全部お前の仕組んだ芝居だ。俺は見たんだぞ、お前が恵子に馴れ馴れしく近づくのを。こんな大掛かりな芝居を打ってお前は俺と恵子を引き離そうとしてるんだ! もし俺が狂ってると言い張るなら、今すぐここに恵子を呼べ!」
俺の話を聞いていた男が、急に下を向いてクックッと笑い始めた。
「答えろ!」
顔を上げた男の表情は一変していた。今までの穏やかな仮面を剥ぎ取ったように。
「嬉しいねぇ、俺を、見たって?」
男は口調まで変わっていた。鋭い目で俺を睨みつけていたかと思うと、男は突然白衣の袖をまくった。二の腕に大きく生々しい切傷が走っている。
「この傷は覚えてないんだろうな。一週間前ストーカーに斬りつけられた男友達ってのは、俺だ。見覚えがあるのは当然だろ」
俺は呆然とその傷を見つめた。さっき像を結んだ記憶はざあっという音とともに頼りなく歪んで消えた。
何も信じられない。
俺の中の記憶は、もう何も。
頭の中でノイズが鳴り響き、俺は何も考えられなくなった。男がクックッと笑う声が遠くに聞こえた。
がちゃん。
鍵の音が冷たく響く。
俺は檻の付いた部屋にいる。さっき打たれた注射のせいだろうか、テレビの砂嵐のように思考が全く像を結ばない。ざあっ。微かにノイズが聞こえる。
恵子の記憶は全て俺の妄想だったのか、それともあの男の企みだったのか、それを確かめるすべはもう俺には無い。ここは何処なのか。あれからどのくらいの時間が過ぎたのか。しかしたとえここから出されたとしても、もう元の生活に戻る事なんてできないだろう。
そもそも元の生活って? ストーカーとしての生活か? それとも……。
口の中に苦い味が広がる。遠くに聞こえてきたノイズが次第に近くなるのを聞きながら、俺は蜂蜜のようにどろどろとした眠りに落ちていった。
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