13. 声の波紋2013年12月15日 15時08分17秒

 目を開けると見慣れた天井が見えた。何も変わらない朝、それなのに何かが、何もかもがまるっきり変わっているような気がしてボクは起き上がった。湿り気を帯びてひんやりと空気は冷たい。ボクは立ち上がってカーテンを開けた。
 霧。
 窓の外はまるで空から牛乳を流し込んだような濃い霧に沈んでいた。狭い路地を挟んだ向かいの家ですら、ぼんやりとした境界で頼り無さげに佇んでいる。胸騒ぎがする、ずっと、目を開けたときから今までずっと。階段を駆け下りたボクを呼び止める声は無い。人気の無いキッチンに濡れたような花が飾ってある。ボクは観葉植物を押しのけて顔も洗わずに制服を着て玄関を飛び出す。ふわり、と霧が揺れる。湿った空気が頬を撫でる。

 耳を澄ます。
 草の揺れる音。それ以外は何も、聞こえない。自動車も、人も、その気配すら。

 確かめたい事がある。ただ、ひとつだけ。ボクは学校への道を走った。白く閉ざされた道の奥が、踏み出すたびに姿を見せる。背の高い草がまばらに生えている。掻き分けて押し倒して踏みつけてボクは走る。角を曲がり公園を横切り、フェンスの向こうに校門が見えた、そして、そこに。
 いた。
 ボクは立ち止まった。冷たい水滴がひとすじ顎から滴る。乱れる呼吸を宥めるように深い息を吐いてボクは一点を見つめた。
 ナツミ。
 ひときわ草の生い茂る校門。その向こうに、確かに、ナツミがいる。霞んだ景色の中でもはっきりとわかる。
 ナツミが、ボクに、微笑みかけている。
 感情が胸から喉を突き上げて襲いかかる。まわりを見渡す。誰もいない。誰も、誰も、誰も、ボクとナツミ以外は、誰も。神様、そう神様。確かボクは願ったんだ。この世界に、ナツミとボクしかいなくなればいいって、確かに、確かに。
 ボクは叫んだ。確かに叫んだはずなのにボクの声はボクの耳にさえ届かない。ただ、霧が揺れる。目の前で霧がゆっくりと震える。ボクの声は霧を揺らしてゆっくりと波のように広がる。静かな水に落とした小さな石のようにボクの波紋がナツミに届くだろう。声なんて無くてもいい。言葉なんてもう要らない。ナツミは波紋を受けて嬉しそうに微笑んで、長い髪がふんわりと揺れて、そしてナツミの口からも波が産まれて、ああわかるよボクには聞こえる。これはテツヤの曲だろう? ゆらゆらと揺れるメロディ。好きだって言ってた言葉。ボクも歌おう。そしてふたりの波を合わせよう。ボクとナツミの波紋が交わればきっとそこから新しいメロディが産まれる。ふたりだけの曲だ。この世界に鳴り響く、ボクたちの為の歌。
 いつの間にかボクは背の高い草に取り囲まれていた。ナツミ、行こう。ナツミに近づこうとするボクの体は草に邪魔されてスローモーションのようにしか動かない。ザワザワと草が鳴る。ススキやキリンソウがボクの顔を撫でてボクはいちいちそれを押し倒して。髪がじっとりと濡れる。ナツミ。すぐそこにいるのに。草を踏みつける嫌な感触が靴の底に、でもそんな事構っていられない。ナツミとふたりきりで行きたい場所が山ほどあるんだ。何処にでも行こう。海でも山でも街でも。学校も無い、家も店も雑踏も何も無い世界で、ボクだけを見つめるナツミとナツミだけを見つめるボクが。ようやくナツミの肩にボクの手が届いたその時、ボクに微笑んでいたはずのナツミがこちらを振り向いた。霞んでいたナツミの姿が突然はっきりと現れた。見開かれた目が。荒い息が。強ばった表情が。どうして。藤や蔦の蔓が腕に絡み付く。違う、違う、ナツミは喜んでいるんだよね。ここは神様がくれたボクたちの為の世界なんだから。動けないボクの前でナツミが少しずつ遠ざかる。ナツミ。ナツミ。待っててすぐに行くから。ポケットに入っていたハサミを翳す。草が一層ザワザワと鳴る。絡み付いた蔓を乱暴に切り裂く。叫びをあげて葉が飛び散る。振り払って押し倒して踏みつけて、ナツミ、ボクから離れないで。腕を掴む。肩を掴む。振り向いたナツミの眼が。違うナツミ、このハサミはナツミを守るため、どうして、なんでボクの手を払うの、なんでそんな顔で、ボクはナツミだけでいいのに他には何もいらないのに、ドコに行くのドコを見てるのナツミのその手はダレを求めてるのセカイニフタリキリナノニナツミハボクカラハナレルノ。振り下ろしたハサミがナツミの首に刺さる。倒れるナツミの顔からゆっくりと色が消え、姿を変え、首の折れたススキがゆっくりと地面に倒れる。嘘だ。こんな世界嘘っぱちだ。座り込んだボクの腕に体に太い蔓が巻き付く。ハサミが手から落ちてボクは持ち上げられて引きずられて抵抗する気も無くて、ただボクはぼんやりと考えていた。相変わらずザワザワと騒々しい音。眼を閉じても開いても変わらない。ここには、ヒトの気配がしない。ボクだけなんだ。ここにはもう、ボクしかいない。いつまで経っても霧は晴れず、ぼんやりと浮かぶ学校は今にも崩れ落ちそうな廃墟に見えた。

14. 新しい世界【上】2013年12月21日 13時31分49秒

「ただいま」
 玄関を開けると、ハツミが飛び跳ねるように走ってくる。おかえり。あのね、今日はね。堰を切って溢れ出すとりとめの無いお喋りを受け流して僕はネクタイを緩めた。一日中歩き回ってクタクタな僕の上に今日の出来事、芸能人の噂、テレビの番組、そんな話が降り注ぐ。夕食の準備もそこそこにハツミの口が止まることはない。
 そして時々、僕は自分が何処にいるのかわからなくなる。

 あの日、ライブハウス回りにも疲れ果ててもう考える気力も無くて、ふと気がつくと僕はこの部屋の前に立っていた。自分勝手に出ていったきり連絡もしていない、今更戻れるはずなんて無かった場所。ドアを開けたハツミの眼からみるみるうちに涙が溢れ出るのを僕はただ驚いて見つめていた。ショートヘアがだらしなく伸びて、首の伸びたTシャツを着て、まるで子供のように泣きじゃくるハツミ。その時僕はハツミのことを、愛おしいと思った。

 リビングでテレビがうるさく喋っている。ハツミのお喋りも続いている。そのどちらも僕は聞き流して夕食に箸を伸ばしている。何処か味のおかしい炒め物。以前のハツミは滅多に食事を作ることはなかったけれど、たまの休日に作る凝った料理はとても美味しかった。
「でね、お昼のテレビでね」
 離れていた時間をすべて埋めつくすような彼女の言葉に曖昧な相槌を打ちながら、僕は今でもハツミの顔に昔の、僕が出ていく前の彼女を重ねてしまう。ショートカットをきちんとセットし、びしっとスーツを着込んで肩肘張っていたハツミ。仕事が好きで、無駄なお喋りが嫌いで、僕の前で涙なんて見せた事が無かったハツミ。目の前にいる女性と同じ人だとわかっていても、未だに信じられなくなることがある。
「それでね、こう言ったの。そりゃあんたのことですやーん、って!ね、可笑しいでしょ」
 仕事は僕が出ていってすぐ辞めたのだと言う。それから貯金で暮らしていたと言う。信じられなかった。別人じゃないかと本気で疑った。でも何故なんだろう。以前のハツミには感じたことの無い気持ち。不揃いな髪を無造作に結わえて、だらっとしたトレーナーを着て、テレビの話を夢中でしている目の前の、今のハツミがとても愛おしい。
「どうしたの? 美味しくない?」
 ああごめん美味しいよ。僕はあわててごはんを頬張った。彼女のお喋りは終わる気配がない。
 食事の後、借りて来た映画をふたりで見る。テレビだけが光る暗い部屋で僕がハツミの背中を抱きしめると、ハツミは照れたような顔で僕を見て、僕の胸に背中を預ける。映画は退屈で、僕はこのソファーの座り心地がどうしても好きになれなくて、そして時々、僕は今この手に抱いているものが何なのか、わからなくなる。

 ハツミの貯金は殆ど尽きていた。
 僕はひとまず契約社員の口を見つけ、働き始めた。
 仕事を始めて間もない頃、僕の帰りが30分遅れたことがあった。何の気無しに途中のコンビニで雑誌を読んでお菓子を買っただけだ。玄関を開けるとハツミは僕に飛びついて泣き喚いた。帰ってこないかと思った、どうして遅れたの、そんな言葉が狂ったようにループする。そのときに感じた戸惑いはハツミが苦しそうに床に倒れ込んだとき、不安にすり替わった。過呼吸というものをその時僕は初めて見た。
 僕はハツミの精神が酷く脆いものだと知った。過呼吸への対処は覚えたけれど、風に吹かれる落ち葉より容易く翻弄されるハツミの感情を安定させることは簡単ではなかった。ネガティブな感情で泣き叫んでも、嬉しさのあまり喋りすぎても、ハツミはおかしくなった。僕のポケットには常にビニール袋が入るようになったし、部屋を暗くすること、映画を見ること、背中から抱きしめることが彼女を安定させることを知ったのも、数ヶ月の試行錯誤の上だった。そして僕はようやくおぼろげに理解した。
 あの日、僕が、何をしたのか。

 ハツミは眠ってしまったらしい。明滅する光が彼女の顔を様々に照らしている。
 気がつくと僕の暮らしから「音楽」が消えていた。ずっと「音楽」と僕はひとつだと思っていた。僕が居る限り「音楽」もそこにあるのだと。でもいつの間にか僕の時計は止まっていて、秒針が鳴らす規則的な音も消えて、でもその静けさは拍子抜けするくらい穏やかで、安らかで。
 これでいいんだ、こうするべきなんだ、そう思った。でもこんな夜僕は時々考えてしまう。僕の、ふたりの将来を、これからの暮らしを。そしてその瞬間、腕の中のハツミはずっしりと重く大きな「不安」にすり替わってしまう。
 好きでもない仕事は、今も正社員になれる気配もない。
 ずっとこの仕事でいいのか?
 音楽は諦めるのか?
 ハツミはずっとこのままなのか?
 むしろ悪くなることは?
 僕は支えきれるのか?
 これで、本当にいいのか?
 答えが出ることはなく、ただ不安ばかりが膨らんでいく。ハツミへの気持ちは嘘じゃない。それなのにこんな夜は微かな寝息を立てるハツミの顔が醜く見えて、どうしても好きになれなくて、だから僕はハツミの頬に頬を寄せて、ただじっと何かが収まるのを待っている。

14. 新しい世界【下】2013年12月30日 22時16分35秒

 相変わらず飛び跳ねるように玄関へやってくるハツミの手に、今日は小さな紙片が握られていた。
「ねぇ、見て見て」
 その紙を手に取って僕は目を疑った。心臓が喉の辺りまで跳ねあがるのがわかる。
「……これ、どうしたの」
「貰ったの。あのね、プロデューサーなんだって。知ってる?」
 僕は微かに頷いた。知ってるも何もそれは以前トオルに引き合わせてもらった、あの人の名刺だったから。

 ハツミは久しぶりに街へ出たのだと言う。
 買い物をしてすぐに帰るつもりが、駅前でストリートミュージシャンがテツヤを歌っているのを聴いて、思わず一緒に歌ってしまったのだと。
「ちょっと待って」
 僕が知っているハツミは音楽が嫌いで、カラオケも嫌いで、いつもテツヤを聴いていた僕を、僕の音楽を、理解することなんて無かった。僕がそう言うとハツミは部屋から箱を持ってきた。中にはテツヤのCDが全部揃っている。
「毎日聴いてたから、全部歌えるよ」
 そう言って彼女は歌い始めた。

 細く通る声。
 震えて、揺らぐ声。
 決して巧いわけではないのに、その不安定な声はテツヤの揺らぐメロディに不思議なくらい合っていて、理屈でなく一瞬で人を惹き付けた。

「ごめん、下手だよね?」
 呆然としている僕にハツミは照れたように笑った。
「でね、この人がね、今企画してるアルバムに参加してみないかって。とりあえず一度スタジオに入ってみないかって。軽い気持ちでいいからって。下手だし、テツヤしか歌えないって言ったんだけど、それでいいからって。あのね、まだ返事してないの。相談するからって言ったの。ねぇ、どう思う?」
 答えられなかった。
 声も出せなかった。
 ごめん、買い忘れたものがあった。30分くらいで戻るから。やっとそれだけ絞り出して僕は逃げるように外に出た。

 街灯の届かない場所で僕はぼんやりと座り込んだ。
 これは皮肉なのか? 苦い思いが胸から涌き起こる。しかし同時に、これは喜ばしいことだという思いもあった。ハツミの精神だってもしかするといい方に傾くかもしれない。今みたいに僕の帰りばかりを待ちわびる生活よりよっぽど健全で、それはハツミだけじゃなく僕にとってもきっと、いいことであるはずなんだ。
 そうだ。これはいいことなんだ。僕の夢をハツミに託せばいいんだ。目を閉じて、念仏のようにそれを唱えて、心を決めてようやく立ち上がったその時。

 目の前を一台の白い車が通り過ぎた。
 見たことの無い車。
 それなのに、見覚えがあった。暗い道なのにまるで光り輝くような車はスローモーションのように、座席まではっきりと見える。
 一瞬で血が逆流する。
 運転席にテツヤが、
 そして、助手席にはハツミが。
 僕のことに気付きもしないで、ハツミは楽しそうにテツヤに体を預けて、そしてただまっすぐに前を向いて、凄いスピードで僕を追い越していく。
 幸せそうな笑顔。
 ふたりの目の前に見える、白く輝く、新しい世界。
 僕は信じてた。
 強く願えば運命に導かれて光り輝く未来へ、
 新しい世界へ辿り着けるって。
 それなのにどうだ。
 探しても探しても何も見えなかった。
 僕を導く力なんて何処にも無かった。
 なのにお前たちの前には未来があってお前たちだけが新しい世界へ僕は置いてきぼりだ何が夢を託すだ冗談じゃない僕は誰より信じたんだ願ったんだ探し求めたんだなのにこんなのって、こんなのって。
 たまらなくなって僕は叫んだ。そして走った。玄関を開けると泣きそうな顔でハツミが待っていた。ねぇ、怒ってる? 何か変なこと言っ。黙らせるように僕は荒い息のままでハツミを抱きしめた。

「結婚しよう」

 ハツミが大きく目を見開いた。
「……今日、正社員にならないかって話があって」
 嘘だ。
「だから、帰ったら言おうと思ってたんだ」
 嘘だ。
「急にそんな話があって……びっくりして、でも僕は君を一生守るって決めたんだ」
 嘘だ。
「音楽なんてやめてくれないか。ずっと僕の側にいてくれないか。心配なんだ、ハツミのことが」
 全部嘘だ。ハツミの見開いた目から涙が溢れ出す。嬉しい、ずっと待ってた、そんなことを繰り返すハツミの声を聞きながら僕は抱きしめる手に力を込めた。何処にも行かせない。お前にだけ未来があるなんて許さない。僕の目の前にはもはや「不安」などではない、もっと黒く得体の知れない何かが口を開けて待ち構えていた。