14. 新しい世界【上】2013年12月21日 13時31分49秒

「ただいま」
 玄関を開けると、ハツミが飛び跳ねるように走ってくる。おかえり。あのね、今日はね。堰を切って溢れ出すとりとめの無いお喋りを受け流して僕はネクタイを緩めた。一日中歩き回ってクタクタな僕の上に今日の出来事、芸能人の噂、テレビの番組、そんな話が降り注ぐ。夕食の準備もそこそこにハツミの口が止まることはない。
 そして時々、僕は自分が何処にいるのかわからなくなる。

 あの日、ライブハウス回りにも疲れ果ててもう考える気力も無くて、ふと気がつくと僕はこの部屋の前に立っていた。自分勝手に出ていったきり連絡もしていない、今更戻れるはずなんて無かった場所。ドアを開けたハツミの眼からみるみるうちに涙が溢れ出るのを僕はただ驚いて見つめていた。ショートヘアがだらしなく伸びて、首の伸びたTシャツを着て、まるで子供のように泣きじゃくるハツミ。その時僕はハツミのことを、愛おしいと思った。

 リビングでテレビがうるさく喋っている。ハツミのお喋りも続いている。そのどちらも僕は聞き流して夕食に箸を伸ばしている。何処か味のおかしい炒め物。以前のハツミは滅多に食事を作ることはなかったけれど、たまの休日に作る凝った料理はとても美味しかった。
「でね、お昼のテレビでね」
 離れていた時間をすべて埋めつくすような彼女の言葉に曖昧な相槌を打ちながら、僕は今でもハツミの顔に昔の、僕が出ていく前の彼女を重ねてしまう。ショートカットをきちんとセットし、びしっとスーツを着込んで肩肘張っていたハツミ。仕事が好きで、無駄なお喋りが嫌いで、僕の前で涙なんて見せた事が無かったハツミ。目の前にいる女性と同じ人だとわかっていても、未だに信じられなくなることがある。
「それでね、こう言ったの。そりゃあんたのことですやーん、って!ね、可笑しいでしょ」
 仕事は僕が出ていってすぐ辞めたのだと言う。それから貯金で暮らしていたと言う。信じられなかった。別人じゃないかと本気で疑った。でも何故なんだろう。以前のハツミには感じたことの無い気持ち。不揃いな髪を無造作に結わえて、だらっとしたトレーナーを着て、テレビの話を夢中でしている目の前の、今のハツミがとても愛おしい。
「どうしたの? 美味しくない?」
 ああごめん美味しいよ。僕はあわててごはんを頬張った。彼女のお喋りは終わる気配がない。
 食事の後、借りて来た映画をふたりで見る。テレビだけが光る暗い部屋で僕がハツミの背中を抱きしめると、ハツミは照れたような顔で僕を見て、僕の胸に背中を預ける。映画は退屈で、僕はこのソファーの座り心地がどうしても好きになれなくて、そして時々、僕は今この手に抱いているものが何なのか、わからなくなる。

 ハツミの貯金は殆ど尽きていた。
 僕はひとまず契約社員の口を見つけ、働き始めた。
 仕事を始めて間もない頃、僕の帰りが30分遅れたことがあった。何の気無しに途中のコンビニで雑誌を読んでお菓子を買っただけだ。玄関を開けるとハツミは僕に飛びついて泣き喚いた。帰ってこないかと思った、どうして遅れたの、そんな言葉が狂ったようにループする。そのときに感じた戸惑いはハツミが苦しそうに床に倒れ込んだとき、不安にすり替わった。過呼吸というものをその時僕は初めて見た。
 僕はハツミの精神が酷く脆いものだと知った。過呼吸への対処は覚えたけれど、風に吹かれる落ち葉より容易く翻弄されるハツミの感情を安定させることは簡単ではなかった。ネガティブな感情で泣き叫んでも、嬉しさのあまり喋りすぎても、ハツミはおかしくなった。僕のポケットには常にビニール袋が入るようになったし、部屋を暗くすること、映画を見ること、背中から抱きしめることが彼女を安定させることを知ったのも、数ヶ月の試行錯誤の上だった。そして僕はようやくおぼろげに理解した。
 あの日、僕が、何をしたのか。

 ハツミは眠ってしまったらしい。明滅する光が彼女の顔を様々に照らしている。
 気がつくと僕の暮らしから「音楽」が消えていた。ずっと「音楽」と僕はひとつだと思っていた。僕が居る限り「音楽」もそこにあるのだと。でもいつの間にか僕の時計は止まっていて、秒針が鳴らす規則的な音も消えて、でもその静けさは拍子抜けするくらい穏やかで、安らかで。
 これでいいんだ、こうするべきなんだ、そう思った。でもこんな夜僕は時々考えてしまう。僕の、ふたりの将来を、これからの暮らしを。そしてその瞬間、腕の中のハツミはずっしりと重く大きな「不安」にすり替わってしまう。
 好きでもない仕事は、今も正社員になれる気配もない。
 ずっとこの仕事でいいのか?
 音楽は諦めるのか?
 ハツミはずっとこのままなのか?
 むしろ悪くなることは?
 僕は支えきれるのか?
 これで、本当にいいのか?
 答えが出ることはなく、ただ不安ばかりが膨らんでいく。ハツミへの気持ちは嘘じゃない。それなのにこんな夜は微かな寝息を立てるハツミの顔が醜く見えて、どうしても好きになれなくて、だから僕はハツミの頬に頬を寄せて、ただじっと何かが収まるのを待っている。

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