14. 新しい世界【下】2013年12月30日 22時16分35秒

 相変わらず飛び跳ねるように玄関へやってくるハツミの手に、今日は小さな紙片が握られていた。
「ねぇ、見て見て」
 その紙を手に取って僕は目を疑った。心臓が喉の辺りまで跳ねあがるのがわかる。
「……これ、どうしたの」
「貰ったの。あのね、プロデューサーなんだって。知ってる?」
 僕は微かに頷いた。知ってるも何もそれは以前トオルに引き合わせてもらった、あの人の名刺だったから。

 ハツミは久しぶりに街へ出たのだと言う。
 買い物をしてすぐに帰るつもりが、駅前でストリートミュージシャンがテツヤを歌っているのを聴いて、思わず一緒に歌ってしまったのだと。
「ちょっと待って」
 僕が知っているハツミは音楽が嫌いで、カラオケも嫌いで、いつもテツヤを聴いていた僕を、僕の音楽を、理解することなんて無かった。僕がそう言うとハツミは部屋から箱を持ってきた。中にはテツヤのCDが全部揃っている。
「毎日聴いてたから、全部歌えるよ」
 そう言って彼女は歌い始めた。

 細く通る声。
 震えて、揺らぐ声。
 決して巧いわけではないのに、その不安定な声はテツヤの揺らぐメロディに不思議なくらい合っていて、理屈でなく一瞬で人を惹き付けた。

「ごめん、下手だよね?」
 呆然としている僕にハツミは照れたように笑った。
「でね、この人がね、今企画してるアルバムに参加してみないかって。とりあえず一度スタジオに入ってみないかって。軽い気持ちでいいからって。下手だし、テツヤしか歌えないって言ったんだけど、それでいいからって。あのね、まだ返事してないの。相談するからって言ったの。ねぇ、どう思う?」
 答えられなかった。
 声も出せなかった。
 ごめん、買い忘れたものがあった。30分くらいで戻るから。やっとそれだけ絞り出して僕は逃げるように外に出た。

 街灯の届かない場所で僕はぼんやりと座り込んだ。
 これは皮肉なのか? 苦い思いが胸から涌き起こる。しかし同時に、これは喜ばしいことだという思いもあった。ハツミの精神だってもしかするといい方に傾くかもしれない。今みたいに僕の帰りばかりを待ちわびる生活よりよっぽど健全で、それはハツミだけじゃなく僕にとってもきっと、いいことであるはずなんだ。
 そうだ。これはいいことなんだ。僕の夢をハツミに託せばいいんだ。目を閉じて、念仏のようにそれを唱えて、心を決めてようやく立ち上がったその時。

 目の前を一台の白い車が通り過ぎた。
 見たことの無い車。
 それなのに、見覚えがあった。暗い道なのにまるで光り輝くような車はスローモーションのように、座席まではっきりと見える。
 一瞬で血が逆流する。
 運転席にテツヤが、
 そして、助手席にはハツミが。
 僕のことに気付きもしないで、ハツミは楽しそうにテツヤに体を預けて、そしてただまっすぐに前を向いて、凄いスピードで僕を追い越していく。
 幸せそうな笑顔。
 ふたりの目の前に見える、白く輝く、新しい世界。
 僕は信じてた。
 強く願えば運命に導かれて光り輝く未来へ、
 新しい世界へ辿り着けるって。
 それなのにどうだ。
 探しても探しても何も見えなかった。
 僕を導く力なんて何処にも無かった。
 なのにお前たちの前には未来があってお前たちだけが新しい世界へ僕は置いてきぼりだ何が夢を託すだ冗談じゃない僕は誰より信じたんだ願ったんだ探し求めたんだなのにこんなのって、こんなのって。
 たまらなくなって僕は叫んだ。そして走った。玄関を開けると泣きそうな顔でハツミが待っていた。ねぇ、怒ってる? 何か変なこと言っ。黙らせるように僕は荒い息のままでハツミを抱きしめた。

「結婚しよう」

 ハツミが大きく目を見開いた。
「……今日、正社員にならないかって話があって」
 嘘だ。
「だから、帰ったら言おうと思ってたんだ」
 嘘だ。
「急にそんな話があって……びっくりして、でも僕は君を一生守るって決めたんだ」
 嘘だ。
「音楽なんてやめてくれないか。ずっと僕の側にいてくれないか。心配なんだ、ハツミのことが」
 全部嘘だ。ハツミの見開いた目から涙が溢れ出す。嬉しい、ずっと待ってた、そんなことを繰り返すハツミの声を聞きながら僕は抱きしめる手に力を込めた。何処にも行かせない。お前にだけ未来があるなんて許さない。僕の目の前にはもはや「不安」などではない、もっと黒く得体の知れない何かが口を開けて待ち構えていた。

14. 新しい世界【上】2013年12月21日 13時31分49秒

「ただいま」
 玄関を開けると、ハツミが飛び跳ねるように走ってくる。おかえり。あのね、今日はね。堰を切って溢れ出すとりとめの無いお喋りを受け流して僕はネクタイを緩めた。一日中歩き回ってクタクタな僕の上に今日の出来事、芸能人の噂、テレビの番組、そんな話が降り注ぐ。夕食の準備もそこそこにハツミの口が止まることはない。
 そして時々、僕は自分が何処にいるのかわからなくなる。

 あの日、ライブハウス回りにも疲れ果ててもう考える気力も無くて、ふと気がつくと僕はこの部屋の前に立っていた。自分勝手に出ていったきり連絡もしていない、今更戻れるはずなんて無かった場所。ドアを開けたハツミの眼からみるみるうちに涙が溢れ出るのを僕はただ驚いて見つめていた。ショートヘアがだらしなく伸びて、首の伸びたTシャツを着て、まるで子供のように泣きじゃくるハツミ。その時僕はハツミのことを、愛おしいと思った。

 リビングでテレビがうるさく喋っている。ハツミのお喋りも続いている。そのどちらも僕は聞き流して夕食に箸を伸ばしている。何処か味のおかしい炒め物。以前のハツミは滅多に食事を作ることはなかったけれど、たまの休日に作る凝った料理はとても美味しかった。
「でね、お昼のテレビでね」
 離れていた時間をすべて埋めつくすような彼女の言葉に曖昧な相槌を打ちながら、僕は今でもハツミの顔に昔の、僕が出ていく前の彼女を重ねてしまう。ショートカットをきちんとセットし、びしっとスーツを着込んで肩肘張っていたハツミ。仕事が好きで、無駄なお喋りが嫌いで、僕の前で涙なんて見せた事が無かったハツミ。目の前にいる女性と同じ人だとわかっていても、未だに信じられなくなることがある。
「それでね、こう言ったの。そりゃあんたのことですやーん、って!ね、可笑しいでしょ」
 仕事は僕が出ていってすぐ辞めたのだと言う。それから貯金で暮らしていたと言う。信じられなかった。別人じゃないかと本気で疑った。でも何故なんだろう。以前のハツミには感じたことの無い気持ち。不揃いな髪を無造作に結わえて、だらっとしたトレーナーを着て、テレビの話を夢中でしている目の前の、今のハツミがとても愛おしい。
「どうしたの? 美味しくない?」
 ああごめん美味しいよ。僕はあわててごはんを頬張った。彼女のお喋りは終わる気配がない。
 食事の後、借りて来た映画をふたりで見る。テレビだけが光る暗い部屋で僕がハツミの背中を抱きしめると、ハツミは照れたような顔で僕を見て、僕の胸に背中を預ける。映画は退屈で、僕はこのソファーの座り心地がどうしても好きになれなくて、そして時々、僕は今この手に抱いているものが何なのか、わからなくなる。

 ハツミの貯金は殆ど尽きていた。
 僕はひとまず契約社員の口を見つけ、働き始めた。
 仕事を始めて間もない頃、僕の帰りが30分遅れたことがあった。何の気無しに途中のコンビニで雑誌を読んでお菓子を買っただけだ。玄関を開けるとハツミは僕に飛びついて泣き喚いた。帰ってこないかと思った、どうして遅れたの、そんな言葉が狂ったようにループする。そのときに感じた戸惑いはハツミが苦しそうに床に倒れ込んだとき、不安にすり替わった。過呼吸というものをその時僕は初めて見た。
 僕はハツミの精神が酷く脆いものだと知った。過呼吸への対処は覚えたけれど、風に吹かれる落ち葉より容易く翻弄されるハツミの感情を安定させることは簡単ではなかった。ネガティブな感情で泣き叫んでも、嬉しさのあまり喋りすぎても、ハツミはおかしくなった。僕のポケットには常にビニール袋が入るようになったし、部屋を暗くすること、映画を見ること、背中から抱きしめることが彼女を安定させることを知ったのも、数ヶ月の試行錯誤の上だった。そして僕はようやくおぼろげに理解した。
 あの日、僕が、何をしたのか。

 ハツミは眠ってしまったらしい。明滅する光が彼女の顔を様々に照らしている。
 気がつくと僕の暮らしから「音楽」が消えていた。ずっと「音楽」と僕はひとつだと思っていた。僕が居る限り「音楽」もそこにあるのだと。でもいつの間にか僕の時計は止まっていて、秒針が鳴らす規則的な音も消えて、でもその静けさは拍子抜けするくらい穏やかで、安らかで。
 これでいいんだ、こうするべきなんだ、そう思った。でもこんな夜僕は時々考えてしまう。僕の、ふたりの将来を、これからの暮らしを。そしてその瞬間、腕の中のハツミはずっしりと重く大きな「不安」にすり替わってしまう。
 好きでもない仕事は、今も正社員になれる気配もない。
 ずっとこの仕事でいいのか?
 音楽は諦めるのか?
 ハツミはずっとこのままなのか?
 むしろ悪くなることは?
 僕は支えきれるのか?
 これで、本当にいいのか?
 答えが出ることはなく、ただ不安ばかりが膨らんでいく。ハツミへの気持ちは嘘じゃない。それなのにこんな夜は微かな寝息を立てるハツミの顔が醜く見えて、どうしても好きになれなくて、だから僕はハツミの頬に頬を寄せて、ただじっと何かが収まるのを待っている。

11. シーラカンス2010年05月30日 16時13分58秒

 眠れなかった。どろどろに疲れているのに、今すぐにでも眠ってしまいたいのに。高架を走る車の音が唸るように低く壁を揺らしている。それに呼応するようにぴんと張りつめる神経が頭の片隅でびりびりと震えている。熱が上がっているんだろう、ベッドにめり込んででもいるように身体が重い。隣室から筒抜けの物音を聞きながら、押しつぶされそうに狭い部屋で僕はひとり息を殺していた。
 繁華街から外れた、どぶ川のほとりにある古びたビジネスホテル。壁の薄いこんな宿でさえ今の僕には贅沢だ。思い出してみれば数日前から体調はおかしかった。疲れも溜まっていた。そんな時に限って昨日、真夜中のレストランはやけに埃っぽく、古めかしい空調が唸りをあげて一晩中僕に風を浴びせ続けた。ひとたまりも無いってのはきっと、こういうことだ。
 眠るのを諦めて、僕はめり込んだ手足をひとつずつひっぺがすようにして起き上がった。喉は無数の刺を飲み込んだかのように痛い。ベッドを降りても身体が浮き上がっているように感じる。バスルームでコップの水を飲み干して正面を見ると、目の前には幽霊のような男が佇んでいた。乱れた髪、落窪んだ眼、くっきりとしたクマ。なあ。鏡の中の男に向かって思わず僕は呟いた。

 満足か?

 レコード店やライブハウスを一軒一軒巡る、そんな毎日はまるっきり成果の見えないルーティーンだ。24時間営業のレストラン、ファーストフード、うたた寝で夜を越す毎日。身体の何処かが日々すり減っていくような、感覚。何かに近づいている気はしなかった。むしろ僕は逃げ続けているような気がしていた。
 隣室のベッドが弾むように軋んでいる。ため息をついて僕は段差に足を伸ばした。ざらりとした絨毯に触れるはずの足先は冷たく、そこだけ水に浸かってでもいるようだ。

 ぴち。
 微かな音がした。もう片足をゆっくりと降ろすと、ぴしゃり。今度ははっきりと水音がした。思わず屈んで手を伸ばす。指先に触れる水。どうして。水の漏れる音なんて何も、いや、それどころか車の音も、あれほど筒抜けだった隣室の音も何もかも。自分の心臓の音が聞こえそうなほど、いつの間にか部屋は静まり返っていた。
 そして、ついさっき水たまり程度だった水嵩は音も無くくるぶしをあっさりと超えてさらにせり上がっていた。ベッド横のフットライトは既に水中に沈み、僕が足を踏み出す毎に壁と天井に映し出される波紋はまるで部屋全体を揺らしているようだ。

 ゆらり。
 部屋が、身体が揺らぐ。

 ぷつん、と突然テレビが点いて部屋に青い光が瞬いた。画面左にインタビューアらしき男、その向かいに座っているのは、テツヤだ。
「……違和……ったんで……周り……違……異質……が紛れ……」
 画像は乱れ、音声は途切れ途切れだ。
「で……わかったん……はきっ……深海……んだ……」
 インタビューアの声は聞こえない。いつの間にかインタビューアの姿も見えない。気が付くとテツヤは画面の向こうからまっすぐに、僕を見つめている。
「僕は、はぐれた深海魚だった。それがわかったから、海に潜ったんで」
 ぷつん。テレビは点いたときと同じくらい突然に消えた。

 水は膝に達しようとしている。恐怖は感じなかった。静まり返った部屋、流れも重さも感じない水。これが、現実であるわけがない。だからふと振り向いたベッドの上に音も無く女性が立っているのを見ても驚きはしなかった。むしろ初めからそこに居ることがわかっていたような気がした。長い黒髪を肩に落としたその女性はベッドの上にまっすぐ立ち、僕を見下ろしている。

 −−日曜日、に
 聞いたことのない声。
 −−待ち合わせ、したよね。ふたり、で、街を歩き回って。
 離れているのに、耳元で囁かれているような声。
 −−学校のことや、友達のこと、喋ってた、私、ひとり。
 たどたどしい言葉はしばしばため息で途切れ、女が言葉を探す間も水嵩は増していく。
 −−君が何も、喋らない、から。
 じわじわと腿を這い上がる水を感じながら僕は女を見つめた。顔にはぼんやりと霞がかかって表情も読み取れない。
 −−シーラカンス、みたい、君は。
 それなのに、女はこちらを見つめて悲しそうに微笑んだ。ただ、そう感じた。
 水は腰骨に近づいていく。
 −−固い鱗で、身を、守って、深い海に、潜り込んで、
 ……僕が?
 −−交わろうとしない、変わろうとしない。ただ眠りこんで、夢を見て、深海の岩の影で。
 誰かと、間違えてる?
 −−そして、仲間が消えた後も、深海で、生き残って、ひとりきりで、
 違う。君が言っているのは、僕じゃ。腰を過ぎた水が次第に胸へ迫る。
 −−それでも、嫌いじゃ、なかった。
 水が急速に増え始めた。既にベッドも水に沈んでいる。良く見ると女は水の上に立っていた。裸足のつま先が水の上に浮いている。
 −−どうして。
 女はしゃがみ込み、水の上に両手を付いて這うように僕に近づいた。胸を突き上げる水嵩とにじり寄る女。目の前に女の顔があるのに、女の顔だけがぼんやりと霞んでいる。僕はそのとき、初めて恐怖した。
 −−どうして海から出てきたの。どうして、あんなこと。
 水が首を浸す。女は僕に覆い被さるように身を投げ出した。や、め。僕の首をかき抱く女。仰向けに倒れる僕の顔が水中に沈む。吐く息が丸く水面に登る。もがく指に感じる水。口に喉に流れ込む水。水面が遠ざかる。女の髪がゆらゆらと揺れ、腕が首にきつく巻き付いて。

 −−深海魚は浮かび上がったら死ぬのよ。

 僕は目を覚ました。車の音が低く壁を揺らしている。隣室からはもう何も聞こえてこない。荒い息を整えてから、僕はめり込んだ手足をひとつずつひっぺがすようにして起き上がった。マットもシーツも汗でじっとりと湿り、ここだけ雨でも降ったようだ。おそるおそる床に足を降ろす。まるで身体が浮き上がっているように感じる。
 これは現実だろうか。
 現実、だよな。
 僕は手探りでスイッチを入れ、バスルームの扉を開けた。

 水。

 バスルームは水で満たされていた。扉を開けた僕に襲いかかり降り注ぐ、水。その水は冷たくも重くもなく、ホログラムのような光を放ちながらあっという間に僕を包み込んだ。
 これも、現実じゃない。
 水は尽きることなくバスルームから溢れ出している。目を開けると浴槽にさっきの女が佇んでいる。長い髪が水にゆらゆらと揺れ、女は僕の顔を見ると嬉しそうに微笑んだ。女から降り注ぐ光の粒が僕の頬をかすめて通り過ぎていく。ああ、そうか、君は。何かを思い出して僕は手を伸ばした。伸ばした手の遥か向こうで、女は微笑んだままで溶けるように沈んでいく。動けないでいる僕に、僕の知らない僕の記憶が止むことなく降り注いでいる。