10. ベッドタウン2010年04月27日 17時51分14秒

 カーテンの隙間から強い光が漏れ出している。どんなに遮っても滲み出して溢れ出してボクの目を射る太陽。この陽射しならきっと空に雲なんて無く、突き抜けたような青が頭上に広がるのだろう。そんな朝にボクは滲んだ光さえ避けるようにしてひとりうずくまっている。
 どうしても、行く気にはなれなかった。
 パジャマのままで膝を抱えてボクは壁に背中を預けた。温度とざらついた感触が伝わってくる。目を閉じると通りを行き交う車の音が聞こえる。窓の外なんて見なくたってわかる。家の前でゆるくカーブする狭い通り、埃っぽい路地、色の取れた屋根と汚れた壁が連なり、落ち葉が吹き溜まり、小さな公園には葉の落ちた木、そしてペンキの剥げかけた遊具。そしてその何処にも−−誰もいない。道端の花が首を上げほころんでもこの街はまるで枯れたように動かない。
 膝に顎を乗せると懐かしい臭いがした。退屈と後ろめたさの臭い。幼いころはよく熱を出して、眠り飽きた昼下がりにはけだるい身体を持て余しながら窓の外を眺めていた。もしかするとこの街は既に廃墟なんじゃないだろうか、取り残されたボクはこのままひとりきりで死を待つ運命なんじゃないだろうか、そんな空想にわざと飲み込まれて絶望を掌でもてあそぶようなひとり遊びを繰り返していた。何度も、何度も、それほどにここは静かだった。

 ボクはゆっくりと立ち上がり、カーテンの隙間から外を覗き見た。溢れ出た光に飲み込まれて真っ白な視界からゆっくりと目の前に立ち現れる光景、それは幼い頃にボクが見たものとそっくり同じじゃないはずだ。それなのに、この街はまるで時間が止まっているみたいに。目の端で何かが揺れた。駅の方向、ぽかりと何かが浮かんでいる。青い空の一点を針でつついたような、そこから丸く膨らんだ血の玉のような。
 赤いアドバルーンがひとつ、空に浮かんでいる。
 気がつくとボクは小さな子供になって駅前にいた。首が痛くなるほど見上げた先に見える顔。その向こうの、青い背景に浮かぶ赤い円形。
 そう、映画を見たんだ。
 アーケードを通り抜けた先にあった埃っぽい建物。
 ジュースとお菓子を買って。
 薄暗い部屋は雨が降るような音がして、
 黒く丸い玉が点滅して、
 目がちかちかとして、
 赤い唇をした女が振り返って……。

 不意に涙が溢れた。
 せき止めていた感情が針で突いた一点から丸く膨れ上がり、溢れ始める。ナツミ。ボクはナツミに会いたい。話がしたい。笑顔が見たい。それだけのことなんだ。それだけのことがどうしても叶わない。いつものように笑いかけたいだけなのに、見えない檻に閉じ込められてボクはナツミの影さえ見失ってしまう。どうして。尋ねても答えが返ることは無い。どうして。混乱したボクを周りがただ、見ている。
 見ている。
 神様がもしいるのなら、聞いてほしい。ボクは何も望まない。ナツミ以外は何も望まない。それだけでいいんだ。本当に、他は何もいらないんだ。だから奪わないで。ボクから、奪わないで。
 決壊し溢れ流れる感情をボクはいつものように目を閉じてやり過ごそうとした。少し我慢すればまた元に戻れる。感情に鍵をかけて明日からまたナツミに会いにいける。でも違った。怒濤のように溢れていたものは次第に色を濃くし粘り気を帯びて徐々にボクの身体を覆い始めた。経験したことの無い感情が身体の奥から沸き出してくる。
 気がつくと涙は涸れていた。ボクは目を開け、アドバルーンに目を凝らした。

 もし、神がいるのなら、証拠を見せてくれ。
 今、ここで。

 ピストルのようにボクは人差し指を差し出した。深く息をして、アドバルーンに狙いを定める。ボクの目の前で景色がぐにゃりとうねる。パースが歪みアドバルーンが次第に大きくなる。アドバルーンの上に人が、乗っている。狙いをつけるボクをまっすぐに見つめて、笑いながら手を振っている。アドバルーンの上で、テツヤが笑っている。ボクが狙いを付けていることなんて、今からボクに撃たれることなんて想像もしていないような笑顔。
 証拠を。
 ボクはアドバルーンにさらに狙いを定める。

 ぱん。

 弾けた音がしたと同時に、ボクは落ちていた。目の前にはさかさまになった街が、見慣れたボクの街がスローモーションのように近づいてくる。ボクは可笑しくて、笑い出しそうになって、それでいて溢れ出した涙の粒がボクを離れて飛ぶのが見えて、割れたアドバルーンの欠片がくるくるとボクの目の前を通り過ぎて、笑い出したボクの身体はいつの間にか見知らない何かに包み込まれて、真っ黒い塊になったボクの目の前で急速に日は暮れていき、夕暮れから濃い青そして暗闇になっても、いつまでもいつまでもボクは落ち続けていた。