記憶【上】2007年01月23日 09時11分51秒


 手に持ったメモから目を離し、俺は一軒の家を見上げた。
 ここが?
 この辺りは所謂高級住宅地って奴だ。その家は俺にしてみれば普通じゃないくらい大きいが、周囲と比べてみれば大して変わる事の無い、まぁ要するに普通の家だ。間違いじゃないかと何度も手の中のメモを確認した後、俺はおそるおそる門の横のベルを鳴らした。
「ええ、滝本さんから話は伺っています。どうぞ」
 インターフォンから声が流れると同時に、門の鍵がかちりと音をたてた。

 白衣の男に招かれるまま俺は玄関から部屋に通された。革のソファーを指し示される。座るとまるで落っこちてしまうんじゃないかと思うくらい尻が沈む。
「あの、ここって本当に」
「ええ、病院ですよ」
 改めて俺は周りを見回した。病院のような設備なんてまるで無い。家具は案外少なく部屋はすっきりとしているが、見るからに高級な調度品が根っからの金持ちの家という雰囲気を醸し出している。
「レストランでもあるでしょう、予約客しか取らない隠れ家のような所が。それの病院版だとでも思って下さい。少人数の患者さんを恵まれた環境でじっくり診察したい、それが僕の理想でしてね」
 向かいに座った男は俺と対して年も違わないように見える。いいご身分だ。穏やかな微笑みにつられるように俺も口の端で笑った。
「滝本さんから話は伺っています。今日はまず、詳しくお話を聞かせて頂きたいと思いましてね」
「はあ」
 金持ちってのは、よくわかんねぇや。沈み込んだ尻を居心地悪そうにもぞもぞとさせる俺を見て、男の銀縁眼鏡の奥の目が笑ったように見えた。

 最近仕事が忙しくて疲れが取れない、肩が痛くて夜も眠れない、そんな至極ありふれた事を恵子に言ったのが間違いだった。あいつ妙に心配しやがって、深刻な病気だったらどうするんだなんて泣きそうになったもんだから、つい病院に行くなんて約束してしまったんだ。恵子は知り合いの医者を紹介すると言って俺にここの住所を渡した。俺が一人じゃ病院に行かない事を知っているから。
 全く、心配性にも程があるって。
 俺はポケットの中からもう一度メモを取り出した。ここの住所、今日の日付と時間、他には何も無いけれど、恵子の丸みを帯びた文字が愛おしい。

「体調が悪いと伺いましたが」
「ああ、あいつが……恵子がオーバーに言ってるだけで、疲れが取れない、肩こりで夜眠れない、よくあることでしょ?」
「確かによくある症状ですが、そういうありふれた症状に深刻な病気が隠れているというのも、ありがちな事なのですよ。こちらも滝本さんに頼まれた手前、一通り検査はさせて頂きます」
「検査?」
「ああ、代金は心配しないで下さい。全て滝本さんから頂いていますので」
 全く、恵子らしいや。俺は思わずにやっと笑ってしまった。医者はそんな俺に気付いていない様子で俺の前に座り直した。
「では、一通り問診を行わせて下さい。症状が出たのはいつ頃から」
「疲れてるのはずっと疲れてるんですけどね、肩こりは一週間くらい前からかな」
「どのようなお仕事を」
「工場のラインですよ。たまんないですね、毎日毎日同じ事の繰り返し。同じ姿勢で朝から晩まで。家に帰ったら寝るだけ。残業と休日出勤が無い事だけが取り柄ってところで」
「休日は主にどんな事を」
「そりゃあ……」
 一瞬言いよどんだ俺を見て医者が意味ありげに微笑んだ。
「デートですか」
「え、まあ」
「付き合いはじめたのは、いつ頃から?」
「え?」
 何か言いかけた俺を医者が遮った。
「質問がプライベートに踏み込むかもしれませんが、よろしければお願いします。これは私の個人的な考えですが、疲れ等の不定愁訴は患者の生活パターンの乱れから来ている事も多く、生活指導の為にプライベートに踏み込む事も必要なのです。あなたのお話によると平日は比較的規則正しい生活を送っているようだ。休日の過ごし方に改善のポイントが見いだせるかもしれません。あ、勿論、差し支えなければで結構なのですが」

 俺と恵子が付き合いはじめて、もう一年になる。
 もともと不釣り合いな二人だ。しがないライン工の俺と「お嬢様学校」なんて呼ばれるF女子大に通う恵子に、接点なんてあるはずは無かった。
 出会いはまさに奇跡だった。朝の駅でたまたま拾ったパスケース。その中には定期券と一緒にF女子大の学生証が入っていた。少しでも早く落とし主「滝本恵子」に、と俺は仕事をサボってF女子大に出向いた。
 やっとの事で探し当てた恵子の反応と言ったら! 耳まで真っ赤に染めて、パスケースを差し出す俺と目も合わせられない様子だった。
 多分、俺はあの時から恵子の事が好きだったんだと思う。
 パスケースを警察に届けていたら俺達が出会う事なんて無かったんだと思うと、俺は恵子のパスケースにいくら感謝したって足らない。
 そして次の日、電車に乗り込む俺に微かに合図を送る女性がいた。恵子だ。
 まさか同じ電車に毎日乗っていたなんて。俺は神様に感謝した。それから毎日、恵子の乗っている車両に俺が乗り込み、俺達はぎこちないながらも少しずつ話をするようになっていった。二人が一緒にいられるたった二駅の区間は次第に俺にとって、俺達にとって大事な時間になっていった。

「なるほど」
 医者が感心したようにため息をついた。
「では、休日はいつも滝本さんと?」
「会えない日があると恵子が寂しがって、だから休日はいつも恵子と」
「滝本さんとはうまくいっているのですね」
「……まあ」
「なるほど」
 医者は軽く頷くと俺に笑顔を返した。
「休日、滝本さんとどのように過ごされているか、伺ってよろしいでしょうか? あ、勿論、差し支えない範囲で」
 俺は差し支えがあるかないかなんて関係なくなっていた。要するに、もっと惚気たくなったのだ。

 疲れている俺に気を使っていたのかもしれない。恵子はあまり出歩くのを望まなかった。恵子とのデートは大抵一人暮らしの俺の部屋の中だった。
 ままごとのようなデートを恵子は望んだ。料理をした事も無いくせに作ると言い張った挙げ句、目玉焼きを真っ黒に焦がしたりする。しかし俺にとってそれは世界一おいしい目玉焼きだった。
 恵子は俺を家に呼ぼうとはしなかった。その理由はじきにわかった。初めて恵子の家を見た時の俺の驚きようを恵子が悲しげに眺めていたのを、俺は今でも思い出す。恵子は正真正銘のお嬢様だった。俺なんかは近寄っただけで捕まっちまいそうだ、ふざけてそう言ったら恵子は本気で怒りだした。
「ひどい。今こうして出会って、好きになって、一緒にいるのに」
 近くにいるのに遠くなるみたい、恵子はそう言って俺の袖をぎゅっと掴んだ。恵子の髪はいい香りがして、たまらずに抱きしめた恵子の体はとても柔らかだった。
 頼りなく細い四本の足で支えられた狭いパイプベッドの上で俺達は抱き合った。甘いキスの味を、切なげな吐息を、暗がりで見た恵子の胸の白さを、俺は片時も忘れた事が……。

「どうかなさいました?」
 気がつくと医者が俺の顔を覗き込んでいた。俺は慌てて頭の中から恵子の裸を追い払った。どうやら途中から喋るのを忘れてしまったらしい。
「だいたいわかりました。で、滝本さんにここを紹介してもらった、そう言う事ですよね」
「ああ」
 俺はポケットからもうくしゃくしゃになってしまったメモを取り出した。
「帰り際にこのメモを貰って……」
 そのとき、不意に嫌な感じが蘇った。
 そうだ、このメモを渡すときの恵子の様子は何処か変だった。そっぽを向くような角度でぶっきらぼうにメモを突き出す手。ぎゅっと結ばれた口。しかし、その後のさよならはいつも通りだったし、だから今まで俺の見間違いだったような気がしていた。
 何か別の仕草を見間違えたんだ、きっと。
「……それで、今日ここに来て」
「なるほど」
 医者はほぉっとため息をついた。
「だいたいわかりました。では治療に入りましょう」
「治療?」
 俺の声を無視して医者は立ち上がり、横の壁に突き出しているスイッチを押した。
 ばたん。
 見るからに屈強な男が二人、ドアを開けて荒々しく部屋の中に入ってきたと思うと、ドアを背にして後ろ手に鍵をかけた。

】に続きます。

コメント

_ masomaso72002 ― 2007年01月23日 17時54分50秒

 このままでも充分成立する、面白いショートショートなのに、まだ続き
がある? 展開するんだ。期待度を125パーセントに上げたのでプレッ
シャーにして下さい。
 いや、まだ下があると書いて実は書かない、読者の頭の中に様々な展開
を浮かばせてしまうと云う手もあるな。
 恵子はお嬢様学校、つまり職業婦人になるつもりはない(親が決めたの
か自分で決めたのかはどちらでもいいが)、花嫁修業的な目的で学校に行
っている、目標は結婚。親はとうぜん「俺」との結婚に反対するだろう。
恵子はただの友だちと思っているだけか? それにしたら愛情深い。その
点も謎なので期待はますます膨らむ。楽しみ楽しみ。傑作になるのか?

_ mukamuka72002 ― 2007年01月23日 17時56分21秒

↑あ? 名前ふざけたのではなく本気で間違えた。

_ ぎんなん ― 2007年01月23日 20時37分01秒

mukaさん、
> masomaso72002
いや、こんなところで、性嗜好を告白されても。覚えておこう。

続きはもう書いてて、あとは明日の朝に公開するだけなんですが、そか、このままにしておく手もあるのか。
つーか、こちらは先を読まれるんじゃないかと戦々恐々です。ま、すこーーーし楽しみにしてて下さい。すこーーーしですよ。

それからななしの校正者様、一行めの一件→一軒を修正しました。「軒」なんて字、忘れてました。にょほほほほ。ありがとうございますー。んちゅー♪

_ おさか ― 2007年01月23日 21時19分02秒

きゃあー♪いいですねえこの思わせぶりかつ怪しげな!雰囲気。高級な客専門の医者、お嬢様、ライン工。キャラもくっきり立ってるし。
最後ね、ボタン押したらぱかっと床が開くのかと一瞬思っちゃった。くれびさんのところで遊びすぎですね(笑)
とにかく次回がすっごい楽しみです♪

_ ぎんなん ― 2007年01月23日 23時11分50秒

おさかさん、
> ボタン押したらぱかっと床が
そーか!しまった!最後の一文を【下】の方にまわせば良かった!
楽しみにされると、あんなの公開しちゃっていいのかと思い悩む、そんな後編なんです。どうしましょう。うひゃあ。

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