2. 自宅2008年06月07日 21時13分10秒

※6/15 全体的にちょろっと書き換えました。そんなに変わってません。
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 部屋のドアをばたんと閉めると、耳慣れた静けさが少しは戻ったような気がした。今日は朝早くから人の動きが絶える事がない。まあ、当分はこんな感じなんだろう。俺はわざと乱暴にベッドに飛び込みぼんやりと天井を眺めた。部屋の壁に掛けられた黒のスーツはついこの間誂えたものだ。
 まるで、こうなる事を予知してたみたいだろう? 予知とかできるのかな、俺。
 自分の考えが馬鹿馬鹿しくて不意に笑いそうになり、笑いそうになった自分に自分で驚いた。本当に突然で、あんまり急すぎて、実感がわかないだけだ。なんだか嫌な気分になって俺は壁に背中を向けた。
 親父は早朝のゴルフ場で突然倒れたらしい。心筋梗塞。休日の朝に突然未亡人になった継母の泣きっぷりは凄まじかった。干涸びてしまうんじゃないかと思ったほどだ。でも今朝会った継母はしっかりとした顔で葬儀社の人と普通に話をしていた。『女は強し』だったっけ? まあ、そんなものなんだろう。
 凄いもんだな。あの若さで、遺産がっぽりだ。天井の模様を眺めながらとりとめも無いことを考えていると、不意にドアが開いた。
「やっぱりここか。何サボってんだ」
 寝転んだままでドアの方に顔を向けると、逆さになった兄貴の仏頂面が見える。
「いいだろ。始まったら行くよ」
「馬鹿。準備がどれだけ大変だと思ってんだ」
「ならするなよ。内々でやるにしたってなにも自宅でやる事はないんだ通夜なんて。葬儀場でちょちょちょいとやってしまえばいいんだよ」
「決まった事に今更口を出すな」
 無言で背を向けた俺に兄貴は怒ったような息を吐き出した。
「お前はいっつもそうだ。準備は来ないなら来ないでもいい。その代わり明後日、臨時取締役会を開くからお前絶対に出席しろ。いいな」
「なんだそれ。聞いてない」
「当たり前だ。親父の、社長の社葬について話し合うんだからな。今後の体制も早急に決めなきゃならない」
「俺、そういうの出た事無いって知ってんだろ?」
「ああ。よく知ってる。親父がどれだけ他の役員に突き上げを食らってきたかもな。親父がいない今、俺じゃお前を守りきれないぞ。もし出席しなかったらどうなるか、わかってるよな」
 よく言うよ。守る気なんてさらさら無い癖に。
 確かに言ったからな、と捨て台詞を残しドアが音を立てて閉まった。ドタドタうるさい足音が遠ざかるのを聞きながら俺はまた天井の模様を眺めた。
 親父も面倒な事してるから駄目なんだよ。小遣いをくれるなら直接くれりゃあ良かったんだ。
 目を細めると天井の模様は流れる雲のように見える。しばらく眺めていると体が沈んでいく感覚とともにその雲がぐるぐると回り始めた。目が覚めたら通夜なんて終わってたり、しないかな。そんな思いつきに苦笑しながら俺はゆっくりとベッドに沈んでいった。

 読経もふるまいも終わり、部屋に残っているのはごく近い親族だけになっていた。様々な人が行き交い蒸し暑かったこの部屋も、今はだいぶん涼しくなっている。
 酒というよりは人に酔ったのかもしれない。胸がむかつくのを堪えながら俺は座敷に横たわっていた叔父を引き起こした。
「ちょっと、飲み過ぎだって」
 呂律の回らない口でむにゃむにゃと呟いた叔父は俺の顔を見ると途端に目の色を変えた。
「お前か。座れ」
 逆らえば厄介なのはわかりきっている。俺は仕方なく叔父の前に座った。
「お前、学校出て何年になる」
 酒臭い息が顔にかかる。俺は小さい声で、五年、と呟いた。
「はあ? 何だって?」
「ご、ね、ん!」
 こんなやり取りはもう何十回目だろう。この後はまるでテープでも再生しているかのように同じ台詞が続く。
「兄さんがなあ、言ってたんだよ俺に。あいつは今でこそあんな風だけど、根は真面目だからそのうちやりたい事が見つかると思う、その時に職歴が無いんじゃ不都合かもしれないしお金が無いのも可哀想だ、って。もちろん俺は言ったさ、そうやって甘やかすからいつまでもだらだらしてるんだ、放り出して自活させないと駄目になる、って。でもな、兄さんがな、泣くんだよ。あいつにしてやれる事はこのくらいだからって、俺の前でな……」
 あとは言葉にならない。俺はえぐえぐと声を出してみっともなく泣いている叔父の手を引いた。蒲団を敷いた部屋に叔父を放り込んだ後、うんざりとした気分で俺は自分の部屋に向かった。
 棺を安置している部屋から光が漏れていた。覗いてみると薄明かりの中で棺に継母が寄り添っている。夜伽なんてしなくていいと言われているのに、だ。昼間はあんなにしっかりしているように見えたのに通夜の最中は誰か来るたびに涙ぐみ、棺の中を確認するたびにどこから出てくるんだと不思議になるくらいの涙を溢れさせていた継母。
 俺も棺の中の親父を見た。小さな窓から見える、白い菊に埋まった顔。きれいに髪を撫で付けられささやかな死化粧を施されている顔は一目見ただけでは寝ているのと区別がつかない。鼻に詰められた綿だけが違和感を呼び、その度に俺は目の前の親父が死体である事を思い出した。
 親父の死体。
 それ以上の感情は無かった。ふと顔を上げると兄貴までがハンカチで目頭を押さえていた。俺は周囲を見回した。

 悲しんでいないのは、俺だけだ。

 スーツを脱いでベッドに横になると、俺は急に不安になった。何か大事な事を忘れているような気がする。このベッドも、この部屋も、時限爆弾の上にある事は間違いが無い。俺は取締役会なんて出る気はないし、そうすればどうなるかもわかっている。
 いや、違う……そんな事じゃなくて。
 考えてみようとしたが、すぐに天井の雲はぐるぐると回り始めた。
 心配ない。
 時限爆弾はすぐには爆発しない。
 遺産があるんだから、しばらくはしのげるさ。
 俺は羊の代わりに遺産を数えながら眠りに落ちていった。