鳩の話2007年03月21日 21時39分03秒

 私は駅のホームで電車を待っていた。会社で昼いちでのミーティング。ホームのベンチでコンビニのサンドイッチとお茶の慌ただしい昼食。ふと気が付くと足元に一羽の鳩がいた。七色に光る首を忙しく前後に動かしながら、私の足下から遠くも近くもない場所をそ知らぬ顔で歩き回っている。

 鳩を見ると何か食べ物を投げてやりたくなるのは、金持ちが万札をばらまくような趣味の悪い欲望だろうか。私はサンドイッチの切端を投げてみた。何処を見ているのかわからない目が瞬時に放物線を捕える。目にも止まらぬ速さで二本の足が動き、嘴が落ちたパンを確実に掴む。何度繰り返しても鳩の動きは同じだ。何処を見ているのかわからない目で、鳩は確実にパンを、私を監視している。

 鳩は私との微妙な距離を崩さない。媚びるように足下を歩きながら、私の手足が届く範囲に入りかけると、さっと飛び退く。鋭い目から表情は読み取れないが、監視されている気持ち悪さが次第に胸に上がってくる。鳩にとって私は生きていくために必要な存在、しかし下手を打てば潰される脅威でもある。恐れながら、鳩は私に媚を売る。

 どうにも耐えられなくなって私はサンドイッチを頬張った。私に投げるパンが無いと見た鳩はなんと、私の座っているベンチに飛び乗った。もう無いよ、思わず私は口に出した。プラスティックのつるつるした面に足を取られ、滑り落ちるように鳩はホームに降りた。ベンチの上に湯気の立ちそうな置き土産が残されているのを見て、私は別のベンチへ移った。

息子の不在2007年03月08日 12時15分33秒


 昨日もユウちゃんは部屋から出て来なかった。
 本当に素直で賢くて、私も夫もユウちゃんに声を荒げた事なんて一度も無い。それなのにある日突然。学校で何かあったかと尋ねても先生はとぼけるばかり。様々な機関に相談に行ったけれど、納得のいく答えは得られなかった。中には私達を罵る人まで。
 あんな所に頼らなくたって、お母さんはちゃんとわかってるの。
 昨夜、夫と話し合った。私達の息子だもの、私達が信じなければ誰が信じると言うの。いつまでも待とう。そして声を掛け続けよう。きっといつか笑顔で私達の前に出てきてくれる、お父さん、お母さん、今までごめんなさい、そう言ってくれる日が必ず来る。
 また朝が来た。ユウちゃんの部屋に行かなきゃ。ユウちゃんは本当はいい子だもの。いつかきっと、わかってくれる。

 足音が聞こえる。朝だ。僕は頭から布団を被った。
 褒められる事が単純に嬉しかった。だから「いい子」でいようとしたんだ。でも「いい子」のハードルは際限なく上がっていった。僕が初めて躓いた日、両親は怒らなかった。
 怒らなかったけれど、許してもくれなかった。
 その日から両親の言葉は変わった。貴方ならできるはず。私達の息子はそんな事で挫けるような子じゃない。さあ、頑張りなさい。できない。頑張ってもできない。僕はパニックになって逃げ出した。ドアの向こうで両親は穏やかに、あくまで穏やかに囁き続けた。
 私達の息子はもっと素直で賢いの。こんな事で逃げ出すような子じゃない。
 返して。
 私達の息子を返して。本当の息子を返して。そんな弱虫じゃない、素直で賢くて私達の言う事を何でも聞く私達の息子を、返して。さあ、返しなさい。
 やめてくれ。叫んでも耳を塞いでも聞こえる、毎日ドアの向こうから響く言葉。
 返せ。
 さあ返せ。
 私達の息子を。
 やめろ。
 じゃあ僕は何だ。ここにいる今の僕は。
 もう、耐えられない。

 ノックが響く。カッターナイフがぱちぱちと音を立てる。


「人に非ず」ボツネタ第2弾、でした。

怪物は夜更けに目覚める2007年03月06日 08時38分04秒


「噂には聞いてたよ。馬鹿が一人いるってね」
 男は楽しそうに口の端を上げた。高級そうなスーツには皺の一つもない。
「何人、殺した」
 俺は奥歯を噛み締める。破れたTシャツから泥が落ちる。
「今まで、罪も無い人間を、理由もなく」
「さあね」
 微かな月の光以外、向かい合う二人を照らすものは無い。

 何度も見てきた。いたぶられ、辱められ、命が尽きてもなお苦痛に歪む顔を。折られ、千切られ、抉りだされ、放置された身体を。どす黒い赤に染まった野の花を。
 他の人間と同じように俺もただ恐れ、目を背け、逃げ隠れた。あの日が来るまでは。

「今の言葉、そっくり返してやろう。何人殺した」
「えっ」
「私のような人間をいくらも殺しただろう。さあ、何人だ」
「お前達は人間じゃない」
 男がクックッと喉で笑った。
「人間だよ。君と同じようにね。人間は生まれつき心に怪物を飼っている。長い間それを奥底に押し込めて知らない振りをしているうちに、本当に忘れてしまう。私達はただ怪物に気付いただけだ。私達を怪物と呼ぶなら、人間は全て怪物だ」
「じゃあ何故、人間を殺す」
 ——あの日、
「本能としか言いようがないね。私達は無差別に殺しているわけじゃない。本能が死ぬべき人間をちゃんと見極める。私達はあらゆる欲望を満足させた後に殺す。それだけだ」
 ——俺は見てしまった。
「死ぬべき人間なんていない!」
 ——死んだ後もなお辱められるかのように、
「なら、君のしようとしている事は」
 ——陵辱の跡を見せつけるかのように、放置されたあいつを見た時、
「黙れ!」

 ——俺の中で、何かが弾けとんだ。

 俺は男に向かって走った。俺と男の身体が触れた瞬間、男の身体は形を変えた。固く盛り上がり血の気を失った皮膚、その姿にはもう人間の面影はない。
 ——怪物。
 皮膚同士がぶつかり合いがちりと音を立てる。異形と化した俺の拳が相手を捉えたその時、月は雲に隠れ辺りは真の闇と化した。


最近はボツネタすら出なかったんですが、「人に非ず」は没ネタが山のように出たんで、久しぶりに「ボツネタの沼」発動です。