3. バー「Pacific」2008年08月07日 01時56分16秒

 ポンと軽やかな電子音が響いてエレベーターのドアが開くと、ガラス張りになった壁の向こうは一面ビーズを撒き散らしたような夜景だ。久しぶりに着たスーツの中で居心地悪そうに体が蠢く。景色を横目に見ながら通路を歩けば待ち合わせ場所は、すぐそこだ。
 生演奏のピアノが流れるバーで、奴は俺を見つけると軽く会釈をした。
「二年ぶりだっけ?」
 俺の言葉に奴は少し苦笑するように俯き、昔と同じ穏やかな笑顔で、三年ぶりですね、と返した。

 金持ちには良くあるように、俺も名門と呼ばれる大学の付属幼稚園に入れられ、そのまま持ち上がって大学まで進んだ。どう考えてもすんなり進めるわけはないんだが、ともかく進んだ。
 同じようなルートを辿る同じような金持ち連中はしばしば派閥のような、グループのようなものを作る。俺と奴は同じグループに属していた。大学の卒業までは何かと集まっていたらしい。一般的にそういうのは「幼なじみ」とでも言うんだろうか。所詮親同士の繋がりでしかないそんな関係が馬鹿らしくて俺は距離を置いていたが、それでも奴だけはしばしば俺の前に現れ、結局無駄になる誘いを繰り返していた。

 グラスが微かな音を立てて触れ合うと、二人の間でピンク色の泡が小さく弾けた。
「いつ、こっちに?」
「一昨日です。うちの父も急で困りますよ」
「辞令は出たんだろ。昇進して本社に凱旋か」
「たいした事ありません。あちこち転勤を繰り返して昇進するより、昇進はゆっくりでいいから本社でって父にも言ったんですけど、怒鳴られちゃいました」
「期待されてんだろ」
 照れたような笑顔で奴は首を振った。いかにも育ちが良さそうな、ふんわりと分けた柔らかそうな髪が揺れる。
「逆ですよ、頼りないと思われているんでしょう」
「ふうん」
 奴の事はずっと嫌いだった。丁寧語で話されるとなんだか馬鹿にされている気がしてしょうがなかった。ただ大学を卒業してからも思い出したように連絡を寄越し、会おうと誘ってくるから、時々はこうして乗ってやっている。
 喉を通り過ぎる泡がやけにピリピリと沁みた。
「そちらこそ、お兄様が社長になられたと聞いてますよ。社長の片腕として頑張っているのでしょう?」
 俺は表情を変えないように気をつけながら、まあね、と言った。確かに兄貴は社長に就任した。そして俺は就任を待たずに首を切られた。もちろん奴はそんな事は知らない。
「この間西浦と会ったんですよ。昇進して部長になったらしいですね。でも泣いてました。部下が言う事を聞かない、出世が早すぎて反感を買ったんじゃないか、って」
 面白そうに笑う奴に合わせて俺も口の端を少し歪めた。奴はまるで女みたいに噂好きなところがあって、昔から聞きたくもない他人の話を聞かされたものだ。
「まあ、妬まれる事もあるんでしょうけど、管理以前にきちんと実務をやっていれば他の社員にも自然に認められていくものですよ。そうでしょう?」
 泡が弾ける。
 俺はグラスを一気に空けて、仕事の話はやめよう、と言った。そうですね、と奴は笑顔で頷いた。

 五杯目を飲み干したとき、天井が回った。俺は一瞬自分が何処に居るのかわからなくなった。

 何も変わらないはずだったろう?
 親父が死んだところで、何も。

「そうそう、戸部、覚えてますか?」
「はあ?」
 俺の言葉はいつもにも増して乱暴になった。酔い始めた証拠だ。
「戸部ですよ。戸部真奈美」
「別に忘れてねえよ」
 浮かんだ姿は何故か中学生だ。色白で小太りで、いつも陰に隠れるようにして俯いてスカートを気にしていた戸部。
「中学の頃、戸部が貴方を好きだった事は知らないでしょう?」
「あ?」
「言わないようにって頼まれてますけど、内緒ですよ」
 何か言おうとしたがうまく言葉が出ない。高校の、大学時代の戸部を思い出そうとしてみたが頭に靄でもかかっているように、うまくいかない。奴の楽しげな顔に心で舌打ちをして、俺はようやく言葉をひねり出した。
「……冗談だろ?」
「中学二年の時、急に授業に出てこなくなったじゃないですか。うちの学校でサボタージュなんかするのは貴方くらいでしたからね、新鮮だったみたいで」
 俺はグラスを呷った。壁もテーブルもぐるりと回る。
「他にも貴方に憧れていた女性はいたらしいですよ、戸部に限らず」
「信じられないな」
「ええ」
 俺のグラスに注がれる液体。ピンク色の泡が貼り付いた丸いグラスの底に奴の顔がゆらりと浮かんだ。
「戸部の想いもすぐに醒めましたから。まあ、そうなります。事実を知れば」
「事実?」

 確か、父親と大喧嘩をしたんだった。
 兄貴まで巻き込んだ大喧嘩だったのに、喧嘩の理由が思い出せない。きっと些細な事なのだろう。ただ覚えているのは、次の日から俺はストライキを始めたという事。ただ、勉強をしない、それだけのストライキ。

「母親の事ですよ」
「母親?」
 俺はグラスの底を見つめた。グラスの底で奴はアバタのように顔に泡を乗せて、ゆらゆらと揺れていた。
「ええ。貴方が小学一年の時に出て行った母親の事です」
 忘れていた記憶が泡のように浮かび上がってくる。しかしそれは掴もうとするとぱちんと弾けた。
「母親が出て行ったのは父親のせいだ、そう言って泣きながら殴り掛かったそうじゃないですか」
 泡がふたつ底を離れた時、奴がにやりと笑ったのが見えた。
「ご存じないんでしょうけど、僕たちの中で親との関係に問題の無い人は少ない。親が忙しすぎるし、夫婦仲も大抵はおかしい。なのに、中学生にもなってあまりにも子供っぽすぎるって、それで戸部の気持ちは終わったようです。みんなそれぞれに親との関係を探りながら暮らしてい」
「ちょっと待て」
 泡が弾ける。
「……誰から聞いた?」
「わからないんですか?」
 グラスの底で奴の顔がぐにゃりと歪んだ。一斉に泡が立ち上る。俺は奴を飲み込むようにグラスを飲み干した。
「はっきり言え!」
 顔を上げた俺の前には、いつもと変わらない笑顔でまっすぐに俺を見つめる「奴」がいた。

「貴方の行動は一時的なものだと僕たちは思っていました。大人のつもりで居ても中学生、反抗期ですからね。だけど貴方はそのままサボタージュを続けた。本来なら高校進学は難しかった。貴方が進学できたのは父親の寄付金のおかげでしょう。今思うと進学できた事が良くなかったのかもしれません。貴方は勉強するでも無く、かと言って学校を辞めるでも無く、ただ無為な時間を過ごし始めた」
 俺の問いに奴は答えなかった。変わりなく穏やかな奴の顔が俺から現実感を奪う。
「貴方はそもそも僕たちの、グループというものが何かわかっていないでしょう? 幼なじみであると同時に、社会人になった時の貴重な人脈なんですよ。貴方は子供じみていて、しかも怠け者で、勉強もできないただの馬鹿だ。でも、重役や社長になる可能性が少しでもあるのなら関係は切れない。だから僕が時々様子を見に行っていたんです」
 奴の言葉が外国語のように聞こえ始めた頃、目の前にぼんやりと映像が浮かんだ。いつの事だったのだろう。街で偶然見かけた兄貴の、横の女性。見た事のある、誰か。
 ……戸部?
「でも、それも結局無駄でした。どう考えたって貴方は恵まれていた。気付きさえすれば、貴方がちゃんと自分の姿を鏡に写してさえいれば、いつだって正規のコースに戻れた。それなのに貴方は反抗という名の甘えにどっぷりと浸かって……」
 泡が弾けた。
 俺は奴の胸倉を掴んだ。ガタンと椅子が音を立てる。店中の視線が一斉にこちらを向いた。
「兄貴か」
 あいつはもう駄目だ。
 兄貴の声がまるで実際に聞いたかのように頭に響く。奴はにやりと笑う事で無言の返事を返した。ウエイターがこちらに飛んでくるのが目の端に見え、俺は奴から手を離し、席を立った。
 ぐるりと床が回る。
「そのツラ、二度と見せんな」
 そう言ってふらつきながら財布を出そうとする俺の横に奴が歩み寄った。
「言われなくても、もう二度と連絡もしません。今日はお別れを言いにきたんです。それから、ここは僕が払います」
 奴が俺の耳元に口を寄せて囁いた。
「社会人として、無職に払わせるわけにはいかないんですよ」
 床が落ちる。
 踵を返した奴が突然声を殺して笑い始めた。そして俺に後ろを向くよう示した。振り向くとそこには鏡張りの太い柱があった。
 仄かな光に二人が写し出されている。童顔だと思っていた奴はいつの間にか年相応の顔つきになり、高級なスーツを自然に着こなした姿には社会人としての自信すら垣間見える。そして、奴の横には。不健康にむくんだ顔は青ざめて見え、高級なスーツにもこの場所にも全くそぐわない。テーブルに体を預けて猫背で突っ立っている姿は滑稽なほどアンバランスで、まるで子供が父親のスーツを着ているようにすら見えた。

 やりたい事なんて無くなっていた。
 遺産の使い道なんて、ひとつもなかった。

 こんなふうに、なりたかったのか?

 歩き始めた奴の姿は次第にぼんやりと霞み、そのうちに天井もテーブルも椅子も全てが回り始めた。膝をついた俺にウエイターが駆け寄る。体に走る鈍い痛みだけが俺を現実に繋ぎ止めていた。

プレゼント2008年08月23日 11時36分53秒

 駐車場の前には相変わらず柑橘系の鉢が放置されている。去年と同じように。
 だが、ささやかに伸ばした葉にアゲハの幼虫が現れる事は無い。
 何故かはわからないが今年はアゲハ自体が少ないような気がしていた。おまけに、去年買った我が家の柑橘系はいまいち元気がない。夏も盛りだというのに全ての葉がごそっと落ちてしまった。
 その後小さな若葉がたくさん出たので、とりあえずほっとしてから、数日。
 ベランダの旦那が私を呼ぶ。



「おおおおおおおおお!」
 ナミアゲハの幼虫が3匹。多分孵化して2・3日。

 ここはアパートの4階である。
 破れているとはいえ鳩よけネットも張っている。
 飛んできたの? ここまで?
 全然気づかなかった。

 思いがけない来訪。



 幼虫は日々食べ、眠り、むくむくと大きくなる。
「あー、癒されるー」
 葉を食べる幼虫を眺めながら娘が言う。お前に何の癒しが必要なのだ、と心の中で突っ込みながら、不思議に思う。ただ食べて、ただ寝て、ただ大きくなるだけの虫に、何故私たちは幸せを貰うのか。

 これがプレゼントだとしたら、誰がくれたんだろうね。

 ということで、今年も何回か写真を載せると思います。
 ヴァッキーを倒れさせつつ。
 ごめんね♪