All at sea2008年05月19日 08時36分04秒

 バスから一歩、踏み出した靴の底から熱が伝わってきた。後ろの客に押されるように何歩かのろのろと歩いた後、僕は後ろを振り返った。情け容赦ない光に包まれて街が白い。首から噴き出す汗がどうしても止まらない。
 信号が青になる。横断歩道の両端から転がり落ちるビー玉のように影が交わり、ぶつかり、光を反射する。

 向いてないんだね。
 そう言われて僕はやっと気付いた。他に理由は無かった。その日のうちに出て行った僕を同期の奴らが驚いた顔で眺めていた。

 昼休みの繁華街に数え切れないほどの色が溢れ、ゆっくりと歩道を流れていく。後ろに立つビルがゆらゆらと揺らいでいるのを僕はバスを待つ振りをして見ていた。不意に僕の横に男が立った。首を拭うハンカチ。汗と整髪料の混ざったにおい。
 それはほんの少し前まで僕が軽蔑していた、姿。
 足が動かない。
 シャツが背中に貼り付いてゆく。

 仕事は難しかったけれど、同僚はみんないい奴だったし、上司も愉快な人たちだった。

 そうだった、んだ。

 僕の周りの空気が急に粘度を増した。
 息が苦しい。
 かき分けるように僕は歩き始めた。海草のようにゆらゆらと揺れるビルの間を縫うように、僕以外の誰もが泳いでいた。
 グレーの鰯。
 赤色の鯛。
 黄色の熱帯魚。
 土色の海老が僕を見て、笑った。

 誰もがこの海で生きている。時々泡を吐きながら、それぞれの役割を持って。
 息が、できない。
 喉をかきむしり海水を手で掻きゆっくりとゆっくりと溺れていく。誰もが当たり前に泳いでいる、この場所で。

 僕は熱せられたコンクリートの上に仰向けになった。強すぎる光に照らされてはるか遠い海面を夢見ながら僕は目を閉じた。海になれない僕だけが深い深い海の底でただ、途方にくれていた。

コメント

_ 儚い預言者 ― 2008年05月19日 09時30分33秒

 言葉が<物の殺害>をするというのは、安倍清明が有名な陰陽道とか、古来の魔術系には必ず出てきます。周りのものの誘導をし、命令する。そしてそれが事物の運動を制御する。
 言葉には本来意味が備わっているわけでないのに、意味づけとして言葉の発祥は逆転の論理として、不条理の原点として、コミュニケーションの最奥には、いつも何かの揺らぎがあるのでしょう。
 存在するという不可思議に、その証明としては、関係性でしか図れない夢。
 世界を分断しながら、世界とひとつであると契機に、言葉はもともと響きとしての命が含まれるでしょうが、意識には言葉の定義以上のひかりとしか言えないこともあると思います。世界とか宇宙とかは比喩であって、それがどのようでもいい訳です。照らしているのは、何かという事を置いて、その対象なり、プロセスの時空に、言葉という響きが上手くマッチせざるを得ない状況が、この私達の住む世界の夢を紡ぎ出しているというのは、妥当性として、論理の上限を見据えているという感じ、フィーリングでしょう。
 フィーリング、それは私の根幹であるかもしれない。

 って面白いですねーー、どこまでもいっても私はわたしになる部分と、いつまでも私はあなたという分かち合っている部分の、果てしない夢。
 境界性、細胞膜という事の面白さは無限大。浸透しながら、逆に浸透されることの物理性は、心という無限を捉えられるであろうか。

 あっひ、ばっしーー。

 そうだった、んだ。

 魚というのは、大きく見れば2000年期の魚座というテーマになり、それはキリストの象徴です。それは・・・・。また来ます。すみません。

_ ぎんなん ― 2008年05月19日 13時09分40秒

預言者さま、
なるほど、陰陽道ですかー。
> 言葉には本来意味が備わっているわけでないのに
そうかー。そうですよねー。「もの」をあらわすために「言葉」があるのに、その「言葉」が「もの」を変容させてしまう。もちろん「音」「響き」によるものもあるでしょうし、日本語であれば言葉を構成する要素のひとつである「漢字」が個々で意味を持っているのも大きいのかもしれません。
中国語では外来語を自国の言語表記に変換する際、意味で訳す場合と音に漢字を当てはめてしまう場合の二通りがあります。後者の場合に「音」で選んだその漢字が意味を主張し言葉が変容することはあるんだろうなー、と思いますね。関係ないですか。ばっしー。

意味を限定されることを拒否し、名付けを拒否する意識。預言者さまの言うところの「ひかり」はそんな意識に付けられた仮の名前なのでしょうか? 言語化されない意識は他人に伝えられないだけじゃなく、留めておくのも難しいものかなと思います。名付けと言う行為は、意識にラベルを付けて整理するようなものでもありますよね。
うーん、言葉って、名付けって、深いなあああああ。

魚座、一応検索して見ました。キリストが生まれたことで魚座期が始まった? さっぱり、わかりません。とんちんかんちん、またおこしー♪

_ コマンタ ― 2008年05月19日 17時06分39秒

この風景はいいですね。一文ごとイメージが綺麗で調和しつつ混ざらない。ところが息苦しいような社会と海中の比喩とがつなぎ目なしにつながっている。これにいちばん感心しました。いいです。新境地ではないにしても、ぎんなんさんの十八番的なキレを感じました。

50で終わってざんねんにおもっていました。言葉について(?)またひろがっていく可能性を預言者さまのコメントにかんじます。

_ ぎんなん ― 2008年05月19日 20時18分52秒

コマンタさん、
この写真は電車の車窓から撮ったものなんです。実家から鈍行で7時間かけて帰っている途中(←暇人)の一瞬です。撮れててラッキーでした。

文章は昨日の夜中に寝不足の頭でほろほろと書きました。寝かせてもいません。別の意味でキレてたりしませんか?(笑)
去年の夏に会社で新人くんが辞めてしまったんです。向いていない人が働き続けても本人もまわりも不幸ではあるのですが、人間関係でも待遇でもなく自分の能力が原因で職を失うって辛いだろうなあと思ったのでした。

コメント50個を目前に話が盛り上がっても、それ以上どうやってもコメントを続けられないのは、どうかなあと思いますねぇ。まあ、新しい記事を書けばいいだけではありますが。実を言うと、あれで終わるのは私も残念だったので、頑張って記事を書きました(笑) 預言者さまに続けていただいたのは私も嬉しいです。

_ 儚い預言者 ― 2008年05月19日 20時19分55秒

 みんな螺旋です。DNAから始まり、宇宙の深奥まで。地球の地軸の揺らぎは1万2千年単位で周期し、それはかのシリウスとセットになって螺旋上に旋回しているらしいです。この地球の周期の6分割が2000年間であって、区切りにはある事象が発生し、変遷があり、終期になり、次のアクエリアスへと繫がる。この2000年期は、海という深い無意識にどう意識を覚醒できるかという物語になる。その象徴が魚であって、キリストという名前は意識の覚醒状態であって、その人物の現われがイエスとなる訳です。まあこれはひとつの神話であって、真実とはかけ離れたものでしょうけれど、ひとつの夢としては非常な広がりのある話であると思います。
 ぎんなんさんがこの話を知らなくて、書かれたのであれば、このシンクロにはユングも真っ青でないでしょうか。

 言葉と象徴と展開。切断と含有と点。否定と存在と無。鏡と太刀と勾玉。夢と現実と真実。

_ コマンタ ― 2008年05月19日 21時14分14秒

いい文章だと思います。書きはじめたきっかけの思いを超えるものが現れていると思います。まあ、言語論からハ(略)まで守備範囲の広いぎんなんさんですから、水中に隠しているものはそのままにして、コンスタントにこのくらいのものは書かなくてはいけません。

預言者さまのいわれたように、本来的に意味が備わっているわけではない言葉。その言葉に意味をむすびつけようとするのは社会なのでしょうか。その社会と切り離されては生きていかれない人間ですが、その一方で人間は、言葉と意味の固定にゆさぶりを与えようとします。たとえば遊びにおいて、アートにおいて。自由な社会でのことですけれど。

_ ぎんなん ― 2008年05月20日 02時50分28秒

預言者さま、
1万2千年単位、ですか。くらくら。星座で推移するなら12分割すればいいような気もしますが、6分割なんですね。キリスト(イエス)が現れてから2千年ならもう魚座は終わってるような気がしてしまいますが、現在は魚座の終期であるということで間違いは無いですか?
魚座は水なので海ですが、アクエリアス(水瓶座)は風ですね。意識の転換が起こる時期なのでしょうか?
と訊いている事でわかるとおり、まったくその話は知りませんでした。ミレニアム(千年紀)ですら2000年が来るまで知りませんでしたから。ひとまず、河合隼雄氏にでも知らせましょうか(笑)

コマンタさん、
ありがとうございますー。私の守備範囲は聞きかじりと思い込みで出来ています。浅いとすら言えません。
> コンスタントにこのくらいのものは書かなくては
え、えっと、はい。がんばりまつ。

言葉が乱れている、とか言いますが、言葉はいつも遊ばれて乱れて時代と共に姿を変えていったものじゃないかと思っています。落語が隆盛を誇った江戸から明治の時代でも、そして今でも、言葉遊びの基本は地口(洒落・オヤジギャグ笑)ですねぇ。既成概念がほんのちょっぴり揺れたりするようなことが、自由な社会では快感なのかもしれません。

_ 儚い預言者 ― 2008年05月20日 10時00分05秒

 言葉とは言の葉。究極は祈りに近い。
 生きる表現としては、一断面に過ぎないでしょうけれど、思考する上では、言葉がマキシマムであり、ミニマムであるかもしれません。
 その範疇外には、幾何学や数式があるのか、それともそれらは言葉と相互に繋がっているのか。
 思考することは、感じることのムーブメントにおいてだけでない、想念があり、意識上では少なくても、意識できないところでは、数多くの思いが駆け巡っています。意識に焦点を当てられた事象が、心の内で対象になるとき名づけが始まるのでしょう。そして記憶の海から類似或いは当該の言葉が見出される。ここは微妙です。そうです、ここには卵が先か、鶏が先かという永遠の課題が見出されるのですから。ここに今、言葉を綴っていますが、言外の心には層なることがあって、意識的には演繹的に筋が通った話にしようと、悶えています。(笑)
 これがあって、これに対応するそれということが無いというか、選択肢の無限大の霞がかかっている襞に、どうアクセスするかみたいな、フィーリングでしょうか。
 ここにもリーズナブルでフレキシブルな言葉の綾が出来ます。
 要するに対話なり交流なりの間に言葉が介在するのは、ただ一つの象徴であり、それへの各々の合意が取り交わされるという、曖昧模糊の宇宙の一つの取り決めであって、それが本当の事象を解明することもなく、かつ真実でもなく、命の夢の合意として、言葉の意義があるのかしらん。
 こころと宇宙、それは同じ夢。

 自分という認識は、他の折衝で分かるという事があります。それは自分という膜が保護と同時に、世界と分かれている境界になっているので、自分の内では、本当の外の世界を知れない。知りたい衝動を興して、そのツールは何でしょうか。
 広がり、接触したものを内に入れ、自分との比較において、自分の力が知れる。そしてそれはいつもではない。負けることもある。そしてどんどん自分が広がり、他に吸収されていくとどうなっていくか。ある時点で、組織ということに気づくでしょう。そう、命のやり取りの無限大は、あまりにも犠牲が多いと。たった一つの為に、皆が倒れるということは、自分という意識が残る可能性は限りなく低い。という判断が生まれる。機能の誕生です。それぞれが生きながら、自分を生かしながら宇宙を手に入れる、自分を知ることが出来る。さあ、これからどうしますか。現実はそうではないですが、簡素なモデルでどんなことに発展していくかという夢です。そしてそれが、今や組織、機能が大きくなりすぎて、自分の夢も命も忘れかけ、不足と制限に足を捕られているみたいなフィーリングでしょうか。

 一つとその分断、私の誕生、世界へ広がり、そして寄与するのは何。寄与されるのは何。

_ mukamuka72002 ― 2008年05月20日 11時05分44秒

なんか寂しくなってきた(笑)、
車窓から見た海、音のしない波、
人のいない浜辺、あー、この時期は特に切ないですね。
営業でまわっていて、こんな風景見るとなにもかも投げ出したくなったものです。
でもよく考えたら投げ出すものなんてなかったりして、
よく十数年前に辞めた会社に戻った夢を見ます。
得意先は全部後輩にひきつがれたので、僕には客がいないんです。
仕事がなくて、途方にくれて、
学生に戻る夢もみます、
教科書を開いても意味がわからない、
先生の言葉も理解できない、
嗚呼、ブルーになってしまった。
こん畜生ーッ!

_ コマンタ ― 2008年05月20日 12時22分18秒

よ、預言者さま~ 
いきなりそんな濃厚ミルクでは、あとにつづく者が、……バタリ。

ぎんなんさん。
エラソーにいいましたが、今回のがあまりにもいいのですよ。
ぼくの好みからすると、(海だけに)調子のナミがあるかも~
みたいな気持ちでした。

言葉は時代と人と添い寝して育っていきますからねえ、
乱れるくらいじゃないと愛を疑われかねません。
二葉亭さんは落語をヒントに言文一致に目覚めたというウワサですけど、
落語も時代の言葉に言い寄られたり押し倒されたりしたのでしょうか。
いま聴いてもわかるのがいいです。

_ コマンタ ― 2008年05月20日 13時15分36秒

なんという人でしたか、ど忘れしてしまいましたが、
禿頭をファッションにまで高めた、
いま大阪大学の学長かなにかやっている人で、
京都出身だったと思いましたが、
えーと……
その人がいっていたのは、
書くことは原文のない翻訳、みたいなことでした。
なにかいいたいこと、思い(ことばになる以前の)みたいなのがあって、
それにことばを与えるのが書くことではなく、
というふうに当時のぼくは受け止めたと思います。

そのカタチのない思いというか、
限りなく透明に近いクラゲのようなものと
ことばとをかちんとぶつけることによって、はじめて、
第三のもの(中身)がでてくるみたいな感じでしょうか。
道路標識が進入禁止をつげるのとはまた異なった
もうすこし人文寄りの捉え方なのかもしれません。
預言者さまの悶えを読んでそんなことを思いました。
書くということがすでにひとつの選択(保持している言語網の中からの)
であるので、いつも書きあぐねてしまうのか、ぼくは。

_ 儚い預言者 ― 2008年05月20日 16時40分21秒

 あっそうか、なるほどーーー。<限りなく透明に近いクラゲのようなもの>おっほーーー。超理解。私のイメージは視覚的なので、直感でピンときました。ありがとうございます。って一体私はいつになったら、「All at sea」のコメントになるのでしょうか。あっひーー、ばっしー。

 「一つがすべてであり、すべてが一つである」(部分の中には全体の情報が含まれ、また、全体の中にも部分の情報がある。)
 それは宇宙のホログラフィックな構造とその始原を指し示してはいないか。
 そして演繹すると、いまこの指先にも宇宙があり、偶然にでもキーボードを叩くのも宇宙の響きであるということでもあるかしらん。
 それなら、あまりにもコングラかっているので、意識の焦点を絞って、照らし、浮き出す事象に遊戯しているのかもしれません。

 何もなく全てある。それは心。宇宙の調べ、あなたから。

_ ぎんなん ― 2008年05月21日 00時52分09秒

6月も7月もチョー忙しいらしい。しくしく。

預言者さま、
おお。私が一日ぱたぱたしているうちに悶えは解消されたのですね♪
部分の中に全体の情報が含まれ、全体の中に部分の情報がある、ありきたりですが遺伝子なんかを思い出します。原子と分子とかでもそうなのかも。性格的なものかどうかは不明ですが、何故か私はミクロの世界に行きたがるようです。
ああ、感想コメントは次の記事の時でもいいですよ♪

コマンタさん、
なるほど、クラゲ。
こつんとぶつけて出てくるものはクラゲとは別のものなのでしょうね。ことばじゃないものをクラゲにぶつけたら、また別のものが出てくる?
そして、クラゲは変わらずにそこにいる?
でも油断をしているとクラゲは消えてしまう?
クラゲから出てくるものに刺されませんように……。

落語は時代によって、客によって、演者によって、様々に形を変えるものですから、「言葉」に限る方が難しいのかもしれません(と、ごまかしてみる笑)江戸に大火事があり、その後の建築ラッシュで大工等の職人の景気が良くなり、寄席の客に職人が増えたおかげで「ストーリーが180度改変された」落語なんてのも存在します。改変のおかげでその噺は今も演じられている人気の噺になったのですから(改変前はたわいもない小咄)何がいい目に出るかはわからないものです。

mukaさん、
大丈夫? 疲れてない?
とっても居心地の悪い、途方に暮れる思いは何故かちょいちょい夢に出ますね。
私は「遅刻確実で、しかも時間割がわからない、社会の教科書忘れた」みたいな夢は見ます。うーん、わけわからんね。
あと、「運転できないのに車を運転している」夢とか。

_ おさか ― 2008年05月21日 11時52分48秒

私ねー、「元の職場に普通に出勤しようとしてるんだけど、途中で自分には子どもがいて幼稚園のお迎えの時間に間に合わなくなるから、やっぱりすぐ帰らなくちゃいけない、と気づく」パターンの夢を時々見る
人間関係は良かったけどとにかくキツくて辞めたときは超嬉しかった職場だったし、もう一度同じ職種に就く気もまったくないのですが
どこかで戻りたいと思う気持ちがあるんだろうか
それとも今のプチ軟禁状態から逃れたいだけなんだろうか(笑

以上、本文とまったく関係ないコメントですみません(笑

「向いてない」てのありますよね
私のいたところは
能力より性格、今までどう生きてきたか、仕事というものを
どう捕らえているか、が一番の問題だった気がします
メインの仕事が出来ないなら出来ないなりに、その職場での自分の位置というものをしっかりつかむことさえできたら
案外やっていけるもんなのですが
難しいですわね
私は、「辞めた若者」にこんなに優しい目線で向かったことないなあ、と反省しきり
自分の子どもには「仕事っつうもんはやらせていただくもんだ」と謙虚な心を教えたい、自分のことは棚上げして(苦笑

_ ぎんなん ― 2008年05月22日 01時00分59秒

おさかさん、
> 今のプチ軟禁状態から逃れたい
に一票。わかってるし楽しいんだけど、やっぱり鬱屈する時はあるんだとおもうなあ。

うちの会社はほんの小さいところなので、人員的にあまり余裕が持てないのもあるかもしれないです。コンピュータ関連は合わない人は本当に合いませんし、性格だけではスケジュールが消化できないのも正直なところ。
人柄は良かったんですよ。同期や年の近い男の子とも仲が良かったし。だから彼が辞めたとき、同期の男の子たちのショックが大きかったようです。

> 「仕事っつうもんはやらせていただくもんだ」
は、ははー。
私自身がだらだら仕事してるんで、そんなこと言えましぇん。何も言わなくても背中が語ってるだろうなあ、ろくでもない事を。

_ おさか ― 2008年05月22日 06時39分02秒

すみましぇん、私もやらせていただいてはおりません(笑
育児は理想に向かわなきゃならんこともありありで、と尻すぼみー

私のいた部署は、社内システム担当だったので、お金が絡まない分
能力なくても使い道あったのかもしれません
性格いいのに向いてない、てのは確かにツライですね
私の覚えのあるできない君は性格も依存的で困りました
ただマラソンだけは得意だったので
年一回の社内マラソン大会だけは花形だったんでした
「時給三百万の男」と呼ばれていましたね(笑
今どうしているのやら

_ コマンタ ― 2008年05月22日 15時38分58秒

携帯からコメントしようとするとき、「コメントをどうぞ」にさしかかって改ページになると送られないようです、ぼくのケータイでは。事後承諾ですみませんが、ホコロビをつくろう意味でこちらへ転載させてください、ぎんなんさん。
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_ コマンタ ― 2008年05月21日 15時09分26秒
クラゲはかぎりなく弛緩した声、それが字に入り込もうとする。うまく入り込めれば、弛緩した声は収縮して意となる。聞きかじりの空海。五大はクラゲで満ちていますから消えることはないでしょうが、これがいつかのクラゲかどうかはなんともいえないでしょうね。でも、クラゲからでてきたものはたしかに人をさしますよ(笑)。

すみません。本来書くべき場所になぜか書けないので(ケータイ操作が・・・)。

_ ぎんなん ― 2008年05月22日 01時22分32秒
あらコマンタさん、こんなところに。

> 弛緩した声は収縮して意となる
おおお。なんか、いいです。五大は弛緩した声に満ちている。
刺されないように気をつけながら、これからもクラゲと戯れたいと思います。
ちくり。あう。

「五大」ってインド哲学なんですねぇ。へぇ。とWikipediaを見つつ。
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え、五大ってインド哲学なんですか! 知らなかった。調べもせず中国哲学と思っていた。上に書いたことは前田英樹というひとが書いていたことのエッセンスをパクッたものですが、いいですよね。ぼくもいいなと思いました。あ、でも、あれ? なんか一瞬、ヴァッキーノさんかと錯覚してしまいました。かつて昭和軽薄体みたいな文体が流行りましたが、ヴァキ体みたいなのが流行ってもおかしくないですね(笑)。あう。

_ ぎんなん ― 2008年05月23日 00時39分10秒

おさかさん、
> 育児は理想に向かわなきゃならんことも
わかります、わかりますー。
でもねー、私なんかはろくでもないものだから、きっと無意識にろくでもないメッセージを子供に送り続けてると思うのー。そう考えるとねー、言えなくなっちゃうんですよー。言った端から突っ込みたくなるのよー。
おさかさんは理想に向かって突っ走ってくらはーい。

時給三百万くん、うーん、とある時代だから生きられた気はするなあ。今はどんな大企業でも時給三百万くんを置いておく余裕はないでしょうね。とある時代に比べれば今は社員の首も切りやすくなっているし。少しは成長しているか、していないのか、まあ時給が下がっている事だけは間違いないでしょうね(笑)

コマンタさん、
転載ありがとうございます。本当は私がしなきゃいけませんでしたね m(_ _)m
ヴァキ体は文体として真似をする事は出来るかもしれませんが、ヴァッキー独特の発想やずらし方が裏に無ければあの面白さは出ないのかもしれません。
なんせ、ヴァッキーは奥深いですから。
そーなんですよ。
ねぇ。
インド人もびっくり!

_ コマンタ ― 2008年05月23日 13時19分45秒

ヴァッキーノさんは風邪をひいてますが、奥が深いです。
ぼくなんかには底知れないと感じられます。
映画・音楽・美術・文学・歴史・科学・宗教……と幅広すぎる分野に
並大抵でない知識と実作経験と愛情を持っているし、
そういうことをそこはかとなくしか匂わせない品のいい美意識を
途方もないユーモアでくるんで出す。
作品や人物に対してあっというほど鋭いコメントをするので、
ぼくは何度もおどろかされましたよ。その上で坊主です(笑)。
ウィークポイントがないですね。スポーツくらいでしょうか。

_ ヴァッキーノ ― 2008年05月24日 11時10分36秒

病院に行けって妻に言われて、怖くて行けないので、
文章を書き終わったら行ってくるよーって誤魔化してます。
あ、ぎんなんさん、海がテーマですね。
最初、ぎんなんさんが海に行ったレポートだと思って読んでましたよ。
そしたら「僕」だから、一瞬「しもべ」って読んでしまいました(笑)
ショートショートですね。
ボクも今日は海がテーマです。

風邪をひいて、寝込んでいると、暇で暇で。
で、梶井基次郎の「檸檬」を読みました。
なんでかっていうと、あの人の小説に出てくる人は、みんな病気なんですよね。
なんか、病気の時に読むと同じ病室やサナトリウムにいるような気になります。
そして、病院に行く勇気が沸いてくるんです。
こうやって、文章を書けるようになったんだから、もう元気なんだけどなあ。
ザッパーン!

_ ぎんなん ― 2008年05月24日 20時42分35秒

最近忙しい上に昨日は飲み会で遅く、今日は娘が体育会の準備で学校に行くのでお弁当を作るのに早起き。
明日は当然体育会です。もちろんお弁当です。
旦那は松山です。

そんな感じで、へろへろしておりました。

コマンタさん、
とりあえず、ヴァッキーはぐだぐだ言い訳しないで長いのを書いたらいいと思いまーす。
今書いてるのも、膨らませられる題材がいっぱいあるのになあと思う。
でも、多分ヴァッキー本人が嫌がるんですよね、そういうの。

ヴァッキー、
ぐだぐだ言わんと、はよ行け!(蹴)

_ コマンタ ― 2008年05月25日 17時02分02秒

自分が他人に向けてなにを書いたか、
審判を待つような気持ちにならないひとは
忙しい人だと思います。あるいは、忘れっぽい。
そうではないぼくはひとを宙づり状態に放置しておくのは
気の毒という気がするので微笑み返しをしますが、
ぎんなんさんはその面で信頼しているので、
お時間のあるときに(だけ)コダマを返してくだされば。
遊びが義務になっては申し訳ないです。

_ ぎんなん ― 2008年05月26日 20時05分24秒

コマンタさん、
あ、いえいえ。書いているときはちゃんと楽しんで書いているのです。昨日はさすがに眠かったし、会社では一応コメント投稿は控えているだけで。返事が苦になったら突然ぷっつり書かなくなると思います。私はそーいう奴です(笑)

現在忙しいのですが、この後もどうやら夏の間は気が抜けそうに無いのですが、そういう時ほど何か書きたくなります。明らかに逃避ですね、はい。

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