All at sea2008年05月19日 08時36分04秒

 バスから一歩、踏み出した靴の底から熱が伝わってきた。後ろの客に押されるように何歩かのろのろと歩いた後、僕は後ろを振り返った。情け容赦ない光に包まれて街が白い。首から噴き出す汗がどうしても止まらない。
 信号が青になる。横断歩道の両端から転がり落ちるビー玉のように影が交わり、ぶつかり、光を反射する。

 向いてないんだね。
 そう言われて僕はやっと気付いた。他に理由は無かった。その日のうちに出て行った僕を同期の奴らが驚いた顔で眺めていた。

 昼休みの繁華街に数え切れないほどの色が溢れ、ゆっくりと歩道を流れていく。後ろに立つビルがゆらゆらと揺らいでいるのを僕はバスを待つ振りをして見ていた。不意に僕の横に男が立った。首を拭うハンカチ。汗と整髪料の混ざったにおい。
 それはほんの少し前まで僕が軽蔑していた、姿。
 足が動かない。
 シャツが背中に貼り付いてゆく。

 仕事は難しかったけれど、同僚はみんないい奴だったし、上司も愉快な人たちだった。

 そうだった、んだ。

 僕の周りの空気が急に粘度を増した。
 息が苦しい。
 かき分けるように僕は歩き始めた。海草のようにゆらゆらと揺れるビルの間を縫うように、僕以外の誰もが泳いでいた。
 グレーの鰯。
 赤色の鯛。
 黄色の熱帯魚。
 土色の海老が僕を見て、笑った。

 誰もがこの海で生きている。時々泡を吐きながら、それぞれの役割を持って。
 息が、できない。
 喉をかきむしり海水を手で掻きゆっくりとゆっくりと溺れていく。誰もが当たり前に泳いでいる、この場所で。

 僕は熱せられたコンクリートの上に仰向けになった。強すぎる光に照らされてはるか遠い海面を夢見ながら僕は目を閉じた。海になれない僕だけが深い深い海の底でただ、途方にくれていた。

1. 歯医者2008年05月27日 00時07分34秒

「暑いな」
 夕方近く、歯医者の待合室にはクーラーの動作音とテレビの音だけがかすかに響いている。
「毎日、な」
 俺の隣で小学五年生の姪は足をぶらぶらさせながら漫画を読んでいる。話しかけた俺の方を振り向くこともない。無視されること、それ自体に腹は立たない。それとなく義姉に頼まれていたとは言え無理に付き合ったのは俺の方だ。
「暇だな」
 俯いていた顎が不意に動き、こちらを覗き見るような気配がする。

「何処行くんだ」
「歯医者」
「一人でか?」
「……」
「付き合ってやろうか」
「いい」
「ほら、最近この辺も物騒だって言うしな」
「すぐそこだし」
「遠慮すんなって」
「してない」
「いいんだよ、どうせ暇なんだしさ」
 あの時も、俺のその言葉で姪が振り向いた。意味ありげに俺の顔をじーっと見つめる姪の顔が一瞬にやっと笑ったように見えた。そのまま視線を外しスニーカーの紐を結んで出かける姪の後を追うようにして、結局俺はここへ来た。

 なす術も無く俺は待合室のソファーに座ってぼんやりとテレビを眺めていた。派手な顔のレポーターの赤すぎる口、強調しすぎた目がくるくると動く。ナントカ動物園でナントカの赤ちゃんが生まれたとか、そういうニュースをハイテンションで喋り続ける。
 週末のお出かけに。
 週末。
 だからと言って、何かが変わる訳じゃない。俺は無意識に舌打ちか何かしたのかもしれない。ふと気がつくと、漫画本を横に置いた姪がじっと俺の顔を見ていた。
「何?」
「ううん。別に」
 そう言いながら姪は視線をそらさない。口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。姪の顔が、俺を見る目の光が、たまに集まれば俺の噂話にきりがない親戚たちに重なる。
「何か付いてるか? 顔に」
 出来るだけ静かに尋ねた俺の前で、堪えるように結んでいた口がようやく開いた。
「……おじさんって、毎日何やってるの?」
 いきなり失礼な奴だ。
「何、って言われても」
「じゃ、昨日は?」
「昨日はほら、お母さんの従姉妹が隣町に住んでるって聞いたからさ、挨拶に」
 母親、といっても血のつながりはない。父親の後妻に入った人で俺と大して年も違わない。
「ああ、訊きに来たよね。手土産何がいいと思う? だっけ」
「だろ」
「用事があったの?」
「いや、ほんの挨拶って奴だよ。今まで会ったことも無かったんだし、まあ一度くらいはさ」
「……そういうのをさあ、暇って言うんじゃないの?」
 やっぱり失礼な奴だ。どんな教育してんだ兄貴は。
「大人には大人の付き合い方があるんだ。大事なことなんだよ」
 心の中を押し隠してやんわりと注意した俺を見ながら姪の顔がみるみる赤くなった。失礼を恥じているのかと別の言葉を探した瞬間、姪はぷっと吹き出し声を立てずに笑い始めた。
「おじさん、それ水曜日。一昨日だよ」
「えっ?」
 俺は随分間抜けな顔をしたんだろう。姪の肩がいっそう激しく震え始めた。
「でさ、昨日は何してたの? おじさん」
 俺は大人らしくびしっと言い返す言葉を考えながら、頭の中で昨日の出来事を辿っていた。たぐり寄せた糸は少し力を入れるとぷっつりと切れた。切れ端を握って俺は呆然と佇んだ。
 思い出せない。
 姪はソファーに突っ伏して笑い始めた。足をばたばたとさせる音だけが待合室に鈍く響いた。

「お医者さんになるんだ。将来」
 治療を済ませて待合室に戻ってきた姪が俺の隣に座るや否や、こう話し始めた。
「だから、病院に行くたびにお医者さんの様子をよーく観察するの」
 医者なんてどうせ親が押し付けた夢に違いない。うんざりと生返事を返す俺に姪が言った。
「おじさんの夢は?」
「夢?」
 そんなことを考えるのは何年ぶりなんだろう。俺の頭の中の「夢」が収まるべき場所を覗き込むと、そこには名前も付けられないガラクタが濃い霧に包まれて転がっているだけだった。
「ないんだー。だからそんなふうなんだよ」
 すべてお見通し、と言わんばかりの姪の声がする。今度こそ怒鳴ってやろうかと思いながら俺はぶっきらぼうに言った。
「お前くらいの頃には夢があったさ。お前もわからないよ、将来どうなるかなんて」
「おじさんみたいにはならないよ。鏡を見るもん」
「鏡?」
 振り向くと姪は俺のほうを見ていない。すました顔でどこか遠くを見ていた。
「たとえ夢が叶わなくても、鏡を見てきちんと生きていれば大丈夫だって。掛け違えたボタンを見ない振りするような、そんな大人にはなるな、って」
 誰の受け売りだ?
 そう訊こうとした瞬間受付で姪の名が呼ばれた。子供らしい返事をして椅子から飛び降り受付の方へ駆け出すその後ろ姿に、俺はこっそりとしかめっ面をした。